プロ野球でバイプレーヤーや準レギュラーや打撃センスで活躍した山田和利(中日―広島―中日)氏が、亡くなりました。息子さんは、俳優の山田裕貴です。『海賊戦隊ゴーカイジャー』のジョー・ギブケン / ゴーカイブルー役としても名を馳せたらしいです。話を戻すと、1983年オフに東邦高から地元の中日に入団。レギュラーには定着出来なかったものの、1988年にはタツの控えではあるが、主にショートとして起用され82試合に出場した。同年には、プロ初のサヨナラ適時打を放った。1990年オフ、音重鎮と共に広島に移籍。なおこのトレードはレンタル移籍に近く、将来は再び中日に戻る密約がされてたとかされてないとか。92年には、5月からサード・ファーストとして起用され、8月には故障欠場の正田耕三に代わりそのまま二塁手、二番打者に定着する。同年は82試合に先発出場を果たす。1995年には、開幕前に故障したルイス・メディーナに代わり音と共にファーストでの起用が増え、前田智徳が故障後に音が外野での起用が増えた関係で一塁の定位置を獲得(この年一塁ではチームトップの70試合に出場)。外野も兼任でキャリアハイの活躍でチームの2位躍進に貢献するが、シーズン終盤には故障で離脱しました・・・翌年にトレードで再び音と共に中日に復帰したが、故障によりその年限りで現役引退しました・・・
1997年よりコーチに転身し、二軍打撃コーチに就任する。98年は一軍内野守備・走塁コーチ。99~2001年にかけては一軍打撃コーチを務める。2002・03年は二軍内野守備・走塁コーチ。04年は、二軍野手総合チーフコーチを歴任した。05年からは中日のフロント入りとなった。2011年に広島へ移籍し二軍守備・走塁コーチを務めた。12年からは広島のフロントに入り球団編成を担当していた。15~21年からは再び二軍守備・走塁コーチを務める事となった。中日時代は内野全ポジションを堅実に守り、さらに外野までこなし、1987年の二軍戦では、試合の終盤で代走として出場後、捕手の守備にも就いた。広島移籍後は持ち前の俊足・堅守に加え、小技と強打を兼ね備えた打者として変貌を遂げる活躍を見せましたが、守備が上手いというイメージや噂は、聞かなかったですがねぇ(大汗)むしろ打撃が良いイメージでしたね!特にスーパーファミスタ2では、控えやのに.282 8本も打ってる!って思ってましたし、よく代打で使いました(笑)確かにこの年の正田は、規定に行ってなかったもんな(汗)一応ファミスタでもプロ野球データ事典でもセカンドの基本レギュラーは、正田になってた・・・息子さんも本人も控えめな性格で自慢話はせず、息子さんには「たまたま役がハマっただけ。周りの人間のおかげやから、感謝(・謙虚な気持ち)を忘れないように」と説いていたけど、陰では娘さんに「あいつはよくやってる」と褒めて言っていたというのは、さっき読んだ週刊新潮に書いてました。通算成績は、試366率.262 22本102点 安227 でした。お悔やみ申し上げます(涙)
それと山本文男(広島)氏も死去。知らないかたでした・・・中学卒業後に1954年オフに広島に投手としてテスト入団。打撃投手も兼ねながら、選手としてもプレー。1年目の1955年から7試合に登板。2勝2敗、防御率2.74を残す。57年に故障により引退して、広島のフロント入り。1962年からは、セ・リーグ審判。1968年の外木場義郎・1994年の槙原博己の完全試合、1985年の阪神のバックスクリーン3連発時は、球審。1978年の上田利治 監督の1時間19分間の抗議の第7戦・1985年の阪神日本一決定時の第6戦でも球審。1987年の吉村禎章の「ツーストライク・フォーボールからのホームラン」と1990年の巨人対ヤクルトの東京ドームでの開幕戦の「篠塚和典の疑惑のホームラン」時も球審。1996年で引退。通算成績は、試7 2勝2敗 防2.74 でした。お悔やみ申し上げます。
あと松山晋也(中)が、2020年のライデル・マルティネス(中日)の24イニング連続奪三振のセ・リーグ最長を抜く、25イニング連続奪三振を記録しました!!おめでとうございました!!なおプロ野球最長記録は、2015年のデニス・サファテの43イニング連続です、まだまだ先やなぁ・・・ただパ・リーグの日本人最長記録である2020年の山本由伸(オリックス)・2022年の佐々木朗希(ロッテ)・2025年の今井達也(西)の25イニングも抜き、26イニングに更新し、日本人では最長連続イニング奪三振(少なくとも、1イニングに最低1個は奪三振してる)をマークしました!!これもおめでとうございました!!!