GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

’12引退&退団選手個人的想い(パ・リーグ編)②

楽天
井坂亮平(投手・楽天)試37 7勝12敗 防4.96
一時期は、ローテを任されるも・・・育成選手として再契約。
佐竹健太(投手・広島―楽天)試261 5勝8敗 防4.91
広島時代は、"たまーにツボにハマればええ方"でしたが、楽天時代は"ロングリリーフや貴重な左打者へのワンポイント"として大活躍!!「野村再生工場」の典型で、曰く佐竹の様な投手に対して「ゴミの山の中から鉄を掘り出したよ。ダイヤまではいかないけどな」との事です。
山村宏樹(投手・阪神近鉄楽天)試225 31勝44敗2S 防5.01
阪神に"期待の投手"として入団も、"某氏からのイジメなど"による影響か?自律神経失調症」を患う(困)その病気も要因で、阪神から戦力外通告を受けた・・・しかし!2000年の3月のキャンプで近鉄にテスト参加し、合格(笑)さらに自信も回復したのか、"完全復活"を遂げ、手薄な"近鉄のローテ投手"に(OK)しかも戦力外からの「オールスター出場」というサクセスストーリーを実現し、6勝を挙げた(大笑)翌年も前年ほどインパクトは無かったものの、7勝でリーグ優勝に貢献!!翌年以降は、先発やロングリリーフや中継ぎと様々なポジションをこなしたが、起用法と一緒で"安定した成績"とは行かなかった{落ち込み}確か2003年頃、"コントロールが良い"という触れ込みで、「ストラックアウト」に挑戦するも、的に当たらんと"上のバーに当たってその衝撃で全てのパネルが落下した事"で「参考記録にしかならんかった事」って、なかったっけ?(ウインク)2004年の分配ドラフト楽天へ入団・・・幸か不幸か選手層の薄さから、時には「勝利の方程式の一角」として登板機会が増える(笑)キャリアハイは、6勝2敗1S 10Hで防御率3.53の2007年!!ま、「便利屋」感は否めんかったけど、一時期は"野球が出来る体調・心理状態やなかった中"からここまでよく這い上がり、頑張り抜きましたよ!!ほんまに立派でした(拍手)野球解説者に。
有銘兼久(投手・近鉄楽天)試303 9勝34敗6S 防4.53
「ダイナミックなフォーム」は、まさに"近鉄のカラー"そのもの{ウインク}2004年には投球回を上回る四球を与えるなど、制球難に苦しんでるのも、近鉄そのもの!さらに好不調の波が激しかったのも、近鉄っぽい{笑い}貴重&即戦力&年齢を鑑みてオリックスへプロテクトされると思いきや、分配ドラフト楽天へ入団・・・2005年は、移籍後初登板で「伝説の開幕2戦目」の対ロッテ戦(千葉マリンスタジアム)で、2回から救援登板するも連打を浴びて即日二軍降格となった(試合も0-26で大敗)。一軍復帰後しばらくは中継ぎで起用されていたが、同年7月対日本ハム戦で先発すると、9回無失点の好投を見せて首脳陣の信頼を得る。この後は先発ローテーションに定着すると、同年7月の対西武戦でプロ初勝利を初完投・初完封で飾り(楽天球団初の完封勝利)、有銘自身もプロ初登板から続いていた連敗を9で止めた。この年は3勝10敗と大きく負け越したものの、4完投を記録するなど自身の乱調から敗れる試合が少なく、夏場以降は安定感を見せた。2006年8月25日の対ロッテ戦(フルキャストスタジアム宮城)で先発すると、延長12回・188球を投げ切って17奪三振1失点の好投(試合は引き分けに終わった)を見せるなど、粘りの投球が目立つようになった。2007年は開幕ローテーションに入り、4月の日本ハム戦で白星!ただ4月の西武戦では3回持たずに降板するなど先発としての役目を果たせず、以降は中継ぎに配置転換された。7月のソフトバンク戦で先発をしたのを最後に、以降はシーズン終了まで、渡邉恒樹山村宏樹永井怜と共に中継ぎで登板し、チームの同年8月の勝ち越しに貢献した。この年は52試合に登板して防御率4.17と自己最高の成績を残し、初めてシーズン通して一軍に登録された。2008年は開幕一軍を逃したものの、前年65試合に登板した渡邉が離脱したため、左の中継ぎとして大車輪の活躍が求められた。また、チームに抑え投手が不在であることから度々抑えを任され、5月のソフトバンク戦でプロ初セーブを記録した。左打者へのワンポイントで登板するなど起用が固定されなかったが全体的に安定した働きを見せ、リーグ最多の66試合に登板して防御率2.05、チーム最多の19ホールドポイントを記録するなど、前年を大きく上回る自己最高の成績を残した。2009年は開幕から主に中継ぎとして登板するが、同年6月の巨人戦では2007年以来となる先発登板を果たして3回無失点に抑えた。前半戦だけで防御率2.36という好成績を評価され、監督推薦によってプロ8年目でオールスター戦に初選出された。しかし、オールスター戦では1死しか奪えず3安打2四球を許して降板した。その後は調子を落とし、後半戦になると安定していた制球力が悪化し、左打者へのワンポイントで登板したにも関わらず四球を与えてそのまま降板したり、打ち込まれるケースが増加した。最終的には、前年を上回るチーム最多の20ホールドポイントを挙げたものの、防御率5.15と大幅に悪化してしまった。といった具合に何故楽天の投手は、後述する「川岸と同様"オールスター出場後に成績が急降下する"んでしょうか?」{困った}まさに川岸と有銘は、「天国と地獄を見た男」です{汗}2012年オフに引退。くっ!!「生え抜きの近鉄戦士」がまた1人、球界から去り(困)(涙)
川岸強(投手・中日―楽天)試187 12勝14敗18S 防4.27
"浮き沈みの激しい"・「地獄も天国も味わったピッチャー」でしたな(汗)中日時代は、"サイドから繰り出す150km台のボールは威力抜群!"という触れ込みで「即戦力」も、殆ど活躍出来ず!しかし楽天では、中継ぎ・抑えとして、"重要なピース"となる(OK)2010年のオールスター初出場後に成績が、急降下(困)楽天の球団職員に
川島亮(ヤクルト―楽天)試105 38勝35敗 防3.66
2004年にルーキーながら10勝を挙げ「新人王」獲得も、翌年以降は、"良い年と悪い年"があったりで・・・ヤクルトの二軍スコアラー兼打撃投手に就任。
下柳剛(投手・ダイエー日本ハム阪神楽天)試627 129勝106敗22S 防3.92
入団当初は、中継ぎ&抑え。若い内から体格の割には、"スピードがとても速い投手"でもなかったけど、「押していくタイプ」ではあった・・・「持ってる球」というよりも、ダイエー・日ハムの中継ぎ時代は"身体が超丈夫で、ケガなく数多く投げる事が出来る事が唯一の特徴"って言って良いぐらいの"それだけでプロで生きている"というぐらいの選手でした(汗)他に日ハム時代の1997年に、216打席連続無三振を続けていたイチローを三振に打ち取って事もありましたね(まる)加えて同年は"1試合に先発した以外は全てリリーフ登板"で「規定投球回」に達した。同年から1999年まで3年連続60試合登板を記録した!!2000年の途中から先発転向。"先発の感覚"だけは、掴んだ?(ウインク)2003年に阪神に移籍してからは、"若い頃考えられなかった「技巧派」に"転身(ドクロ)した事で、開花&野球生命も延命!!!2003・2005年の阪神の優勝に大きく貢献{拍手}特に2005年は、「規定投球回未満での最多勝タイ記録のタイトルを獲得」は、"珍記録"(ウインク)2009年からは年齢もあり、低下(落ち込み)2012年に楽天移籍も、仕事は出来ず(涙)オフにロサンゼルス・ドジャースのトライアウトに参加。最終テストにまで残ったが、合格には至らず、2013年3月20日に現役引退を表明・・・"草野球やOB戦で無様な姿は見せたくない"&"あわよくば現役復帰も可能性は、ゼロではない"から、トレーニングは続行の事!野球解説者などをしながら・・・
稲田直人内野手日本ハム―横浜―楽天)試365 率.254 0本39点 安137
日ハムの「代打の切り札」でしたが、もう一つ殻を突き破れんかったかぁ(汗)野球解説者及び北海道ローカルのスポーツキャスターに。
草野大輔(内・外野手・楽天)試629 率.278 26本204点 安526
"悪球や難しい球でも簡単に打ち返す打撃"は、ノムさんも頷くまさに「天才」でした(炎)もちろん、2009年の楽天の2位に大きく貢献!!!しかし!やはり2010年に中村紀の復調やフィリップスの加入で、ポジションダブりで出場機会が減ったのが、下降した原因か?(困)さらに仙ちゃんの就任で復活するかに思えましたが、ますます冷遇される身に(涙)「天才と呼ばれるには、野球人生が短すぎた!」(困)楽天のアンバサダーに就任。
中村真人(外野手・楽天)試292 率.269 6本69点 安216
育成選手から這い上がった「悪球打ち」&ノムさん曰く「安物の天才」{ウインク}凄く低身長でしたが、"好調時は手がつけられない程の打撃"(ドクロ)よく鉄平に代わって、3番を打ってた時も在ったし!引退して、スポーツバーのオーナーに。
<ロッテ>
山本一徳(投手・日本ハム―ロッテ)試35 1勝1敗 防5.39
すいません、ノーコメントです。日本ハムの球団職員に。
林啓介(投手・ロッテ)一軍出場なし。
一応、サインは持ってるけどね・・・阪神の育成選手に。
光原逸裕(投手・オリックス―ロッテ)試28 8勝12敗 防6.88
仰木さん「最後の愛弟子」!!良かったのは、そのルーキーイヤーでの7勝だけやったか・・・
秋親(山田秋親)[投手・ダイエーソフトバンク独立リーグ・福岡―ロッテ]試126 16勝11敗1S 防4.76
<中>"NPB返り咲き"も「給料泥棒」のままか?(少怒)(困)
西野勇士(投手・ロッテ)一軍出場なし。
現在は、支配下登録されてます。
ヘイデン・ペン(投手・ロッテ)試16 4勝7敗 防3.69
"ムービングファーストボール"といった「いや~な球」は持ってたけどね・・・
ダグ・マシス(投手・ロッテ)試6 1勝4敗 防6.49
すいません、ノーコメントです。米球界に挑戦。
的場直樹(捕手・ダイエーソフトバンク―ロッテ)試313 率.161 5本42点 安24
「マイクパフォーマンス」の王様{ウインク}「守備・リード」は問題無しも、"肩と打撃"がねぇ{汗}ただ!統一球になって、やや打撃が向上した気も(ウインク)ソフトバンクのスコアラーに。
今岡誠内野手阪神―ロッテ)試1309 率.269 122本594点 安1284
"良い意味でも悪い意味でも何をしでかすか分からない「天才打者」"(ウインク)「気分屋」という事でも、あったんでしょうね(汗)
ただ内角打ちの"捌き方"は絶品で、「確か」であった事は、間違いない!!今岡は、損な選手でしたね{汗}"ゲッツー打っちゃイカン場面で、ゲッツー打ったり"だとか"ゲッツーの後やどうでも良い場面でシングルヒットを打ったり"だとか"バント失敗が目立った場面で出てしまう"だとかの事のタイミングが悪い(困)「覇気が無い」とか誤解をされる事が多かったんで・・・あと天才やから、ノムさんの「準備(データ)野球」に合わんかったんやろう(落ち込み)データが邪魔になるタイプ!!加えて"飛び込めば届く辺りに飛び込まんかった"から、目を付けられ・・・その後の活躍を見れば判るようにノムさんも"期待してるからこそ!将来の阪神をしょって立つ選手やからこそ"の"素晴らしい能力を持ってるのは、誰が見ても判る事"やからの、ノムさんの選手操縦法「無視・賞賛・批難」の最高級待遇の"批難"を下していたようやが、失敗やったようですな(困)"それを逆手に取って、上手く使った"のが、星野監督やったようで(笑)「気分屋はこう使うんや!」と「使い方さえ間違わなければ、活躍するんや!」を実践したのが、仙ちゃんであった(汗)2003年には、首位打者!2005年には打点王獲得で、偶然にも?チームの優勝に絡んでいる(ドクロ)「もしや今岡の成績が、阪神の趨勢に大きく関わってる!んでは!?」(汗92005年以来今岡の成績も落ち、阪神も優勝してない訳やし!!2010年にロッテに移籍もシーズン中は仕事が出来なかったが、"勝てばCS出場が決まるシーズン最終戦で2安打を放ち、気迫のヘッドスライディングでの生還を見せるなど活躍。CS第2ステージ初戦では先制の口火を切る二塁打を、4戦目では移籍後初本塁打を放ち、5戦目では5年ぶりに犠打を決めるなど大一番での強さを見せた"という「オイシイ所もって行き振り」は、"相変わらず"でしたな(ウインク)2011・12年は、コーチ兼任。そしてシーズン終了後に引退。野球解説者に。
蔡森夫(内野手・ロッテ<育成枠>)一軍出場なし。
すいません、ノーコメントです。台湾球界へ。
<太>渡辺正人</太>(内野手・ロッテ)試492 率.208 11本71点 安140
友人のロッテファン曰く「誰が、守備固め(クラスの選手)をドラ1で獲るか!?(笑)」と苦笑してました・・・「上宮高校出身のスラッガー候補」として獲得しましたが、ロッテは"スラッガー育成下手"の典型!ただ"対左投手に対しての打撃"は、そこそこやった・・・?独立リーグ・長野のコーチ兼任選手に。
南竜介(投手・外野手・横浜―ロッテ)一軍出場なし。/試181 率.207 6本20点 安51
とにかく正確なスローイングに加え「鉄砲肩」のレイザービーム(燃)何度か補殺を両チームでやってましたね!打撃さえ良ければねぇ、たまに打ってたけど(落ち込み)韓国球界挑戦も、不合格をもらったようですね(困)
山口祥吾(投手・ロッテ<育成枠>)一軍出場なし。
すいません、ノーコメントです。独立リーグ・新潟へ。
石田淳也(投手・ロッテ<育成枠>)一軍出場なし。
すいません、ノーコメントです。
鈴江彬(投手・ロッテ<育成枠>)一軍出場なし。
すいません、ノーコメントです。
生山裕人(内野手・ロッテ<育成枠>)一軍出場なし。
すいません、ノーコメントです。
木本幸広(外野手・ロッテ<育成枠>)一軍出場なし。
すいません、ノーコメントです。
オリックス
エバン・マクレーン(投手・オリックス)試25 8勝7敗 防4.09
すいません、ノーコメントです。
西川雅人(投手・オリックス)試14 0勝1敗 防6.75
すいません、ノーコメントです。独立リーグ・愛媛に入団。
フレディ・バイエスタス(投手・オリックス)一軍出場なし。
すいません、ノーコメントです。
長峰昌司(投手・中日―オリックス)試69 5勝5敗 防5.66
磯山さやかと同郷やぞ{怒}しっかりせんかぃ!!2004年には、ウルトラマンセブンと先発投手をジャンケンで賭け、"負けて登板出来んかった事"もありましたなぁ(ウインク)「デーブ・ベースボール・アカデミー」講師に就任。
白嗟承(投手・オリックス)一軍出場なし。
すいません、ノーコメントです。
伊原正樹(投手・オリックス)試12 0勝6敗 防6.65
すいません、ノーコメントです。育成選手として再契約。
鈴木郁洋(捕・外野手・中日―近鉄オリックス)試501 率.185 3本56点 安153
覚えてるかたは、どのぐらい居るんでしょうかね?(笑)ニックネームの通りプロとしては初の大会"プロアマ合同で参加した"「シドニーオリンピック」本戦代表選手として、参加したから、"シドニー"という愛称が付けられました!本当のプロ初参加は、それ以前の"シドニー五輪予選"ですが・・・中日には当時、正捕手・中村武志(中日―横浜―楽天)が君臨していた為、レギュラー捕手ではなかった(汗)第2捕手に加え知名度も低かった為、予選で抜擢されたのが古田敦也やっただけに、余計に世間の皆さんは「鈴木って、誰?」という印象やったでしょう(落ち込み)僕も当時"郁洋"って読めなかったですし、本人には申し訳ないですが"テレビゲームで知ってる程度の選手"でしたね{汗}確か僕の記憶が確かならば、代表候補に名前が挙がった時点では、"その年一度も一軍に上がってなかったんやんかったけ?という状態やなかったか?"と・・・で、五輪本番近くになって、ようやく一軍の試合に出てた記憶があるんですが(汗)ともあれ五輪抜擢に疑問を持つかたも多かった中、参戦した。結果は、ご存知の通り4位と惨敗(涙)特にシドニーは、3位決定戦の韓国戦での李承燁に決勝タイムリーヒットを打たれたリードに対して世間は、非難轟々(困)僕の友人も「この場面のリードだけは失敗やったし、ここだけは古田が理想やったな・・・ここ以外は、鈴木はよくやったと思うけど!」と評していました・・・特に"ストレート一本調子の配球"や"内角一辺倒の配球"に苦言を呈している人が、多く見られた!しかし!鈴木郁洋の名は、五輪出場で一気に広まった(ウインク)しかし!帰国後も第二捕手、さらには2002年に谷繁加入(困)2002年のオフに、シドニーの箔と"足のある走れる捕手"という触れ込み(僕は特に「後者」と捉った!)で金銭トレードで近鉄へ移籍!!しかし近鉄でも的山哲也が居る為、殆ど二軍暮らしで出場は、2003年の12試合のみ・・・分配ドラフトオリックスに。2005年、"正捕手に日高剛・的山が居る為、合併球団でもまたしても出番は無し!"かと思いきや、日高のリードが仰木さんの逆鱗に触れ、史上初の交流戦から"中日に居たからというセ・リーグ経験を買われ"突如、一軍昇格・即スタメンを果たした(大笑)この年と翌年は、ほぼ「交流戦専用捕手」要員としての役割となる(ウインク)ただその役割も、2007年にコリンズ監督が就任すると、出場機会が激減(バッド)再びの台頭は、2009年の日高の故障発生まで待たなければならない!さらに翌年からは岡田監督の"日高へのリードバッシング"で、出場機会が増える(汗)さらに2011年の"統一球導入"により"返って打撃が向上した"のは、的場と一緒でした(ウインク)しかしそれも束の間、翌2012年は、41試合の出場に留まった{汗}オリックスの二軍バッテリーコーチに就任。
北川博敏(捕・内野手阪神近鉄オリックス)試1264 率.276 102本536点 安1076
「強打の捕手」という触れ込みで、阪神に逆指名で入団も、二軍では首位打者を獲るなど"無敵"でも、一軍では殆ど代打で、たまにスタメン捕手や打撃が良いから一塁手で出場してたぐらいでした・・・ネックは守備に在って、特にキャッチャーとしてはしんどいものがあった(困)当時監督のノムさん曰く「定詰雅彦と北川は、捕手としては、論外の選手やった(落ち込み)」というのは、守備を鑑みれば、当然そうやったんでしょうなぁ(汗)ましてや当時の阪神には、体形も「同タイプ」のカツノリがおり、完全に"ポジションが被ってました"しね(困)で、カツノリも「右の代打」として"結果を残してました"し(ドクロ)行き場を失った彼に転機が訪れたのは、2000年のオフに近鉄へトレード移籍した時やった!!このトレードは"北川メイン"のトレードではなく、"投手同士のトレード"が、メインでした・・・だから当時の僕もあまり期待してなくて、"引退した鈴木貴久のポジションの後釜・「右の代打(の切り札)要員」"ぐらいにしか考えてませんでした(汗)もしかしたらパ・リーグの水が合い、ある程度はやってくれるかも!?」とも、少しは思ってましたが・・・案の定、近鉄でも打撃の良い選手は多い為、代打スタートやそのまま途中出場選手として捕手としてマスクを被ったり(→近鉄投手陣の制球力が怖いのか、外角一辺倒のリードやったけど[汗])!4月にプロ初本塁打も。5月27日は29歳の誕生日だったが、生まれて初めてサヨナラ安打を放ち、お立ち台で涙を流した。サヨナラ打を多く放ち、一躍近鉄の「代打の切り札」に{ウインク}9月24日の対西武戦では代打として出場し、松坂大輔から本塁打を放ち勝利に貢献している!!これでチームは優勝へのマジックナンバーが1になったので、貴重な本塁打であった(OK)そして、9月26日の対オリックス戦で史上初の"代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打"を放ち、「日本中の注目を集めた男」となった(燃)「"もうこれ以上に劇的なホームランは、存在しない"かも知れませんね」というぐらいの「強烈な本塁打」!!!上回るものがあるとしたら、"CSでの代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打"や"日本シリーズでの代打逆転サヨナラ満塁日本一決定本塁打"ぐらいでしょうね{ウインク}続くヤクルトとの日本シリーズでは、スタメンで全試合に出場して14打数7安打、打率.500の好成績を残した!当時は、シーズン中は基本、"代打での出場が殆どやったし、チームもそのリズムが慣れてる・合ってる"と思ってたんで、「スタメンはシーズン通り鷹野で行こうや!」と愚痴ってましたが、北川が代打で多くても1試合数打席ではもったいない話でしたね(困)"シーズンと同じ起用法にこだわりすぎる"と、「2005年の阪神日本シリーズ」みたいになってしまいますからね(落ち込み)敢闘賞は第2戦で決勝スリーランを放ったりしたローズでしたが、個人的には北川やった(燃)日本シリーズでもそうでしたが、近鉄を含めて北川も"あれだけ劇的な事をやったんやから、今後あれ以上の事をやるのはきついし、あれで運を使い果たしたんちゃうか?"とも思い「翌2002年は、試練が待ってそうや!」と思っていたら、案の定彼はオープン戦で負傷し、北川も近鉄の成績も落ちました(困)しかも北川は起用法に「4足のわらじ(スタメンでの捕手・スタメンでの一塁手・代打・代打からの捕手)」を履かされるという、梨田監督の方針でした(ウインク)(汗)しかし2003年は、5月下旬に不振&故障を抱えての中村紀に代わって自身初の4番を座った時期もあり、「本物の選手」になって行く!"4番を控え選手が張る、3・5番の選手を敢えて動かさずに、4番に据えない"というのも、黄金時代の西武がそうで「打線の流れを変えたくない!」という方法論としては、有効ですよね(OK)西武でも4番の清原和博欠場時に3番秋山幸二、5番オレステス・デストラーデは動かさず、敢えて4番に森博幸(西武)を入れてましたもんね(大笑)元々チャンスに強いんやし、ちょうど"4番は適正打順"でしょう(ウインク)2004年も同様に"アテネ五輪でノリ不在時"に「4番」でした!!さらに2004年は、オープン戦吉岡雄二がアキレス腱断裂による故障でレギュラー一塁手が戦線離脱し、ちょうど内野手登録になったばかりで、チャンス・レギュラーの座を確保{笑顔}しかもチームの中では一番好調選手で、合併騒動の中よく頑張り(拍手)野球人生最高の成績を残し(つまりキャリアハイ)、.303 20本塁打88打点を残した(OK)この成績が見込まれ、分配ドラフトではオリックスに!まぁ前年が良すぎたのは明白で、2005年はホームラン(16)・打点(67)は、元々の能力を考えれば、こんなもん(汗)ただ、打率(.259)は低かったわな・・・何か本人の中に「近鉄に拾ってもらった身」という思いや"やり切れぬモヤモヤ感"があって、当初は「合併球団でプレーするのも抵抗があった」みたいですよ(落ち込み)その気持ちを2005年のシーズン終了ぐらいまで引きずり持ちながら、プレーしていたようです(汗)あとになって、少し後悔したらしいですが(爆)2006年以降は、拙記事「阪急ブレーブス回顧(身売り後①・②)を参考にしていただければ(汗)2008年にサードを守った辺りぐらいから、ゆっくりと?下降線をたどって行きましたわなぁ(汗)"控えからスタート"し"最期も控え的"になってしまいましたが、「あなたのような素晴らしい選手はそうそう居ない!と思われます」(大笑)"近鉄最後の優勝"をもたらしていただいて、本当にありがとうございました(すいません)"生え抜きではなかった"ですけど"近鉄オリックス顔"でそれに近い存在でしたよ{ウインク}後進の指導はオリックスの二軍打撃コーチのようですが、勝負強い「北川二世」を育ててください!!本当にお疲れ様でした!!!
ボビー・スケールズ(内・外野手・日本ハム―米―オリックス)試165 率.262 14本53点 安155
その名の通り「非常時での助っ人」やったんかな?(ウインク)日ハム時代は、田中賢介故障の穴埋め要員として期待され、翌年のオリックスでも同様に坂口智隆故障による緊急獲得!!ニックネームもハム時代から"スケさん"やったし、登場曲も「水戸黄門」のテーマ曲で、キャッチフレーズも「こらしめてやりなさい!」(ウインク)ただ!その時のチーム事情もありますが、殆どのケースで助っ人外国人に求められるのは、「助さん」の様な"脇役"ではなく「ご老公」の様な"主役"クラスの働きやねんなぁ{落ち込み}主役になるには、"長打力不足"やったか(汗)・・・現役引退で、アナハイム・エンゼルスのファームディレクターとして再出発する模様。
柴田亮輔(内野手オリックス)一軍出場なし。

"大事な時にケガをする"から、こうなるんか?{困った}ソフトバンクの育成選手に。
荒金久雄(外野手・ダイエーソフトバンクオリックス)試389 率.230 10本55点 安148
「秋山(幸二)二世」の呼び声は、時に"対左投手対戦時"に鬼の様に発揮するも{困った}ソフトバンクのスカウトに。
由田慎太郎(外野手・オリックス)試122 率.177 2本10点 安32
早大時代は、鳥谷が一番で・青木が二番、この「由田が三番打者」やったんやぞっ(ドクロ)プロに入ってからは、随分と差が付きましたなぁ(困)オリは最下位が多く外野手登録やから、背番号も66やったし、選手名鑑で一番うしろに載ってる事が、多かったね{笑顔}毎年交流戦や秋口に昇格し、ちょっと活躍して帰る(ウインク)か、一・二軍行ったり来たりの「エスカレーター選手」(汗)プチブレイクは、2011年の終盤でした!!オリックスのスカウトに
丹羽将弥(内・外野手・オリックス)一軍出場なし。
もう うちのドラ1は、アテにならん?(落ち込み)関西メディカル学院に入
延江大輔(投手・オリックス<育成枠>)一軍出場なし。
「瀬戸内のランディ・ジョンソン」&誕生日が一緒も"看板倒れ"(困)
甲斐拓哉(投手・オリックス<育成枠>)一軍出場なし。

ドラ1・・・独立リーグ・長野に入団

小林賢司(投手・オリックス<育成枠>)試2 0勝0敗 防0.00
よう二軍で荷物持ちしてなかった?ドラ1・・・
グレゴリー・べロス(内野手オリックス<育成枠>)一軍出場なし。
すいません、ノーコメントです
<番外編>

田口壮(内・外野手・オリックス―米―オリックス)試1222 率.276 70本429点 安1219
拙記事「阪急ブレーブス回顧(身売り後①・②)で結構彼について書いたんで、詳しくはそこを見て頂いて、ここでは成績の事以外を書こうかな?(汗)ーん、"己を知っていて、分相応の役割をしていた優等生"選手やったんやないでしょうかね?(笑)「関学の好打&鉄壁の守備を誇る遊撃手」という触れ込みでオリックスに入団も、入団早々"プロの壁にぶち当たり"、特に"内野での送球(スローイング)に苦戦"し、「送球イップス」になってしまう(困)加えてストレスから突発性難聴に陥り、守備では失策を続けた(涙)しかし!"1994年の4月末の試合で、2球続けて送球エラーをしたんですね。交代させられて、ベンチに戻った時、仰木監督から「(ショートは)もうええやろ」と言われました。プロ野球選手として消えて行く状況であった・・・先ず福良淳一に「どうしたら良いですか?」と尋ねました。「どうもこうもないやろ!」と言われ・・・僕も分かってるんですよ、誰かに背中を押して欲しい、決断を委ねたいとね。それから監督に「外野をやらせていただきます」と。そしたら監督が「あのメンバーに勝てるんか?」と。当時はイチローに、藤井康雄高橋智本西厚博という外野陣でしたけど、僕も何気なく「勝てますよ」と言ったように、イチロー以外の先輩は僕と全く違うタイプで、入る隙はあるだろうと思っていました"と回想したが、田口壮は、有言実行でメキメキと台頭して行く(炎)最初はやはり、エラー連発やったそうですが(汗)しかし"外野手・田口壮"は、のちに「日本・アメリカ1の名脇役」誕生の瞬間でもあった(拍手)こういった"その選手に合った良い方向に向かうコンバート"が出来るのも、仰木さんが名将たる所以ですよね(OK)1995・1996年のオリックスの連覇に貢献(大笑)2002年には、低年俸ながらも、渡米を決意!またしてもスタートにつまづき、一時は「新庄剛志よりも下」というレッテルを貼られ、マイナー・リーグにも降格してしまう(汗)が、元々本人が持ってる「何クソ魂」でどん底から這い上がる(大笑)2006年・2008年には、チームを主役並の脇役力で「アメリカ1」に導く!2010年にオリックス復帰(大笑)2011年オフに戦力外通告を受け、他球団も獲得に動かず、浪人を選択も、オファーは無く8/1に引退を決意(涙)仰木さん曰く、「お前は真面目すぎる。優等生すぎるから、悩む事も多いんや。」と、しかしさすればこそ、監督も彼にキャプテンシーに才覚を感じそれを求め、「使い易く安心して出せる選手」やったんでしょうね(笑)"凄く真面目で実直な人柄"は、with・・・夜はラジオと決めてますを聴いてても、窺えましたよ(笑)それと田口自身も「自分はイチローらと違って、(ホームランバッターでもないし)スター選手やない。」と公言してましたから、"出しゃばった所はなく、自身の立場を解っていた"「模範の様な選手」でした(拍手)凄く波乱万丈で長い野球人生でしたでしょうけど、本当にお疲れ様でした(拍手)「"仰木門下生"として1日でも早く現場に戻って来て欲しい」です!!!野球解説者やラジオパーソナリティに。
土肥義弘(投手・西武―横浜―西武―米)試335 31勝45敗1S 防4.30
1993年のセンバツ準優勝投手!卒業後はプリンスホテルに。1999年からは、主に対左打者のワンポイントとして一軍に定着し、先発、リリーフとも左投手不足だった当時の西武では貴重な存在でタフィ・ローズキラーとして名を挙げるも、2004年、先発転向を希望したが西武ではあくまでも"中継ぎ要員としての評価"で、一軍出場のないままシーズン途中にトレードで横浜に移籍。横浜移籍は結果的にその年から巨人へ移籍したローズを追いかけるような形となったが、移籍初勝利はその巨人戦で、そのローズを併殺打に打ち取って挙げた1球勝利であった。その後左の先発投手が不足していたチーム事情から先発に転向し、この年は5勝を挙げる。2005年には、内容はともかく(→巨人戦で殆ど勝つ?)初の二桁勝利となる10勝を挙げた。特に"対巨人戦での好投のインパクト"により一躍「巨人キラー」として名を馳せる(ウインク)しかし翌年以降は成績が低下し、2009年からは古巣西武に・・・中継ぎとして(ウインク)2010年は一軍でスタートするものの、開幕3試合目に救援で打ち込まれてしまう。その後も「投げれば打たれる状態」が続き、最も酷い時には防御率が30点台後半にまで悪化した。しかし7月後半以降は持ち直し、同28日以降の20試合で防御率1.42と好成績を挙げる。星野智樹が不調で抜けた投手陣にあってほぼ唯一の左腕リリーフとして活躍した。オフには取得した海外FA権を行使し、メジャー挑戦を表明。球団も本人の希望を尊重し、慰留しなかった。紆余曲折を経て、2012年にマイナー・リーグのチームと投手兼コーチとして契約した。現役引退を表明し、野球解説者に
 坪井智哉は現役続行なようで、引退した際に書きます。