GRの戯れ言日記

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大阪近鉄バファローズ回顧(設立期~1958年)

 もっとも大阪近鉄という球団名になったのは、球団が設立されて随分と経ってからの事やったんで、僕には「後付け」っぽく見えた・聞こえたし、僕には未だに"近鉄"の方が、馴染み深いですし今でも言いますし「近鉄」って発言するかたの方が、多いんやないでしょうか?(笑)"近鉄って名乗ってた時期(歴史)の方が、遙かに長い"訳やし(汗)
 1949年の日本プロ野球オフ時に毎日新聞(毎日オリオンズ)の動きを発端に色々な企業が、新規参入に名乗りを上げたのである。先ずは戦前に南海電鉄と合併していて日本野球連盟とも関係の無い仲でもなかった近畿日本鉄道近鉄)であった。近鉄は南海の支持を得て、9月14日に加盟を申し入れた。ケンカ別れによる「2リーグ分裂」の事の詳細は省略するが簡単に説明すると、"毎日と近鉄に限らずこれ以上の球団増設に反対"していた新聞派(しかし大陽は、新聞社ではない)の巨人・中日・大陽に加えて「伝統の一戦」を捨て切れずに元々電鉄派であった大阪(阪神)が寝返って新聞派のセントラル・リーグに加盟したのと"球団増設容認派"の鉄道派(ただし大映は、電鉄会社ではない)の南海・阪急・東急フライヤーズ(現:北海道日本ハムファイターズ)・大映パシフィック・リーグの方は、4球団が所属した。さらに両リーグ共に4球団では少数過ぎるという経緯で、新しい球団の加盟を計画したのである。パ・リーグは、毎日新聞社の毎日と近鉄の"近鉄パールス"が正式加盟を認められ、西鉄は"西鉄クリッパース(=1年限定の名前)"として加盟した。
 2リーグ分裂時や翌年の西日本と西鉄の合併により、争いが絶えなかったのはセとパの対立であり、特に"球界の発言力や強さ"を独占したい巨人を中心に選手の引き抜き合いが、絶えなかった(困)引き抜かれた側は、主にパの阪急・大映・東急であったが、セも大阪(阪神)が引き抜かれた側であった・・・しかしこの時大阪の経営状況が苦しく、"主力選手を放出せざるを得なかった"という諸説がある(汗)引き抜いた側は、パの毎日(パ・リーグに入りたがってた大阪の選手が、毎日に大量に移籍志願して来た為、何のためらいもなく旧阪神の選手を受け入れたから、引き抜いたというよりも勝手に転がり込んで来た?)・セの巨人(西鉄はセの西日本を吸収合併して、選手はそのまま受け継ぐはずであったが、選手のセからパへの移籍を認めないと巨人が勝手に決めたので、巨人に選手を引き抜かれた[激怒][怒][少怒])!!ここで無風なのが、近鉄ですよね(笑)つまり他球団選手の引き抜きなどせず、当時「正面突破」で球界に参入したので、"クリーンな球団"と言われた(OK)近鉄東京六大学早大・慶応・法大・東大・明治・立教)野球出身の選手や球団主導でのスカウティングによる社会人野球出身の選手を中心としたチーム構成で、関根潤三投・内・外野手(<現役時代>近鉄―巨人<監督>大洋―ヤクルト)や武智(田中)文雄投手らが、活躍した。特に関根や根本陸夫(捕手)は、"法大時代の恩師である藤田省三(<現役時代>プロ野球選手としては所属球団無し。<監督>近鉄)が、近鉄の初代監督に就任するから"「プロに行く事を決断した」といわれる!その縁で関根を初め服部力(近鉄)・山下譲(近鉄)・芳村嵓夫(いわお)[中日―近鉄大映]・宍戸善次郎(近鉄)ら法大出身者をごっそりかき集めたが、肝心のプロ経験者は黒尾重明(セネタース・東急・急映・東急―近鉄)・田川豊(近畿・南海―大陽―近鉄大映)・森下重好(太平パシフィック・太陽・大陽―近鉄)ら数えるほどで、陣容の非力さは隠しようがなかった・・・
 遡ると、記念すべき初陣は、1950年3月12日の藤井寺球場。開幕戦の相手は近鉄とは正反対に大型補強を敢行した毎日であった。東急対大映戦との変則ダブルヘッダーの第2試合で行われたこの試合は、強い季節風に砂埃が舞い上がる中で挙行された。→今後の「近鉄の行方を象徴してる」様な感じですなぁ(汗)開幕直前に高熱を発し、ダウンしていた藤田監督も球場に姿を見せたが、実際に指揮を執ったのは主将の加藤久幸(春雄)(<現役時代>近鉄<監督>近鉄)。すると初回、4番・森下の内野安打の間に失策出塁していた山本静雄(中日―近鉄)が生還し先制。幸先の良いスタートを切ったが、その後は失策で自滅する格好となり、2対6で完敗した(涙)しかし翌日の南海戦では沢藤光郎(近鉄)が粘りの投球で9回を投げ切り、4対3で球団初勝利(クラッカー)サイドハンドの沢藤はこの年、18勝を挙げる活躍で、「初代エース」と呼ばれるようになる。結局創設1年目は、連敗、連勝、また連敗と極端な試合を続け、8月に最下位に転落すると、最終的には首位・毎日から37.5ゲーム差も離されての最下位の7位(困)リーグ1打てなかった打撃陣、駒不足の投手陣もさる事ながら、特に夏場以降は"1点差で敗れる事が、増え始め"いわゆる"プロ選手との差"を選手それぞれが痛感するシーズンとなった・・・「本来ならば、来年以降はその反省を踏まえて」・・・となる所だが、藤田監督を落胆させたのは、"本社からの補強費用が予想以上に出なかった事"(落ち込み)トレードでの補強は一切なく、新人2選手を獲得したのみ(しかも出場ゼロのまま、この年限りで退団)。これでは2年連続最下位は、火を見るよりも明らかであった(困)それでも7連敗で終えた8月から一転、9月は14勝8敗1分けで6位東急に0.5ゲーム差まで迫り、最終的には7位も、藤田監督の契約最終年となる1952年へ期待を持たせた!前年と違ってトレード、新戦力獲得にも積極的に参加。しかし結局、1952年は西鉄から移籍の鬼頭政一、球団初の外国人選手・甲斐友治(近鉄)らが見事な活躍を見せたが、意に反してチームは開幕から最下位を独走(困)閉幕2試合を残して、藤田監督が契約切れで退くが、すると「関根ら"藤田ファミリー"と呼ばれた選手達が、後を追おうとする騒動」まで起こしてしまった(結果的には、残留する)[涙]他チームからの補強・若手の底上げも上手くいかず、2代目監督に芥田武夫(<現役時代>プロ野球選手としては所属球団無し。<監督>近鉄)が就任するまでの4年間は、毎年最下位(困)鈴木武(近鉄―大洋)・小玉明利・戸口天從(たかつぐ)[近鉄―阪急]ら気鋭の若手が起用されるようになりった1954年、初めて4位に浮上するが、翌年からは下位に低迷(5位・5位)(汗)1957年のパ・リーグは、高橋ユニオンズ大映との吸収合併により消滅(困)余剰した選手が、東映近鉄に移籍した出来事もあった。57年は、高橋の消滅により7球団体制の効率の悪さからこのシーズン勝率3割5分を切ったチームは休養するという申し合わせをしてシーズンのスタートを切ったのである。この場合休養というのは解散と同じである為、全球団が存続を希望するパ・リーグペナントレースは、熱戦が繰り広げられた。どんな手を使ってでも勝たねばならぬという空気はパ・リーグ中に充満し、結果とんでもない抜け道を考える球団まで出て来たのであった。先陣を切ったのは毎日で、メジャーリーグの選手が兵役で日本の基地に来ている事に目を付けたのである。これを使わない手は無いと思い、毎日の代表は兵隊の勤務時間外にアルバイトでうちの試合に出てもらえないか と彼等を口説き落とした。そしてアメリカ軍からレオ・カイリー投手(毎日)、チャーリー・フッド捕手(毎日)という2人の兵隊を借り出した。この内カイリーはバリバリのメジャーリーガーであった。彼等は8月8日の対西鉄戦から登場して大活躍した。特にカイリーは投手として負けなし、さらに打者としても19打数10安打として大仕事をやってのけたのである。しかしそのカイリーも9月に兵役が終わると、シーズン中であるのに帰国してしまった。でもおかげで毎日は何とか解散に追い込まれる事態は、避けられたのである。他にも西鉄がフィル・ペイン(西鉄)、アル・ロング(西鉄)という2人の投手をアメリカ軍から借り出したのである。西鉄はこの2人のアルバイト外国人を南海・阪急等と優勝を争っていた大映との3連戦に注ぎ込んで来た。おかげでこの3連戦を落とし、大映は優勝戦線から脱落する事になってしまう。こうなると当然アルバイト外国人を雇っていない球団から不平・不満の声が上がって来る。セ・リーグ側からも「そんな球団が日本シリーズに出て来たら困る」という声が出て、ついにこのアルバイト外国人は翌年から禁止になってしまったのである。ただし前述の近鉄の甲斐は、日系二世の為対象外であった(ウインク)近鉄の残り試合は、47で6位大映と最下位近鉄との間には、10ゲーム差が付いていた。"5ゲーム差でも苦しい残り試合数"であった(汗)しかしここから大映近鉄の激しいサバイバルレースが、始まった。芥田監督は、不振の責任をとって6月20日に退陣し、コーチ・加藤久幸が代理監督になっていた。元朝日新聞運動部長の芥田はクールな理論派だったが、加藤はナインと共に土にまみれる熱血派だった。次元の低い争いとはいえ、生き残りをかけたレースを戦うのに相応しい指揮官であった!!ナインは合併球団の悲哀を、肌で感じていた。消滅した高橋から分配された4選手が、近鉄に加わっていたのを目の当たりにしている。差別したり、されたりした訳ではないが、分配組はどこかやりづらそうだった。投手の伊藤四郎(名古屋・中日―トンボ・高橋―近鉄―南海)は、1956年に21勝をマークした高橋のエースだったが、近鉄では振るわなかった・・・陽気でたくましい男なのに、突然の環境の変化に体も心も着いて行く事が出来なかった。もし近鉄が消滅するような事になると、"自分達も伊藤と同じ苦しみを味わう。それどころか、働き場所を失うかも知れぬという切迫感"が、チームを包んだ(涙)チームにとっては、47試合の内ライバル大映戦を9試合も残しているのが、「望みの綱」だった。ローテーションを無視してでも、大映に強い黒田勉(近鉄)を集中的に振り向けた(OK)やんちゃ坊主であったが、頼りにされると力を発揮した。近鉄打線にとっては、大映のエース・三浦方義(巨人―大映・大毎)が、難敵だった。4年間在籍の巨人では未勝利も、56年に大映に移籍してから29勝と大ブレイク!!黒田はこの三浦と投げ合う事が多かったが、一歩もヒケをとらなかった。9月21日からの対大映4連戦(大阪球場藤井寺)、10月1日からの同5連戦(島田、横浜、茅ヶ崎[球場の説明は、省略])で、近鉄は7勝2敗と勝ち越した(大笑)7勝の内三浦に投げ勝った3勝が大映の士気をくじき、近鉄が生き残る大きな星となった。残留へ追い込みに入った頃、球団は勝ちゲームに1人200円の「報奨金」を出した。大卒の初任給が、1万円を少し超えた時代の200円に、どの程度のありがたみがあったのか。それは別として、55年に"完全試合を達成した武智に祝い金を出さなかった球団"が、この時には奮発した。しかも人情代理監督加藤の意向で、完投勝利の投手もベンチウォーマーもトレーナーも一律に200円だった。それにクレームがつかなかった辺りに、当時の「結束ぶり」がうかがえるそ(キラキラ)ただ「そんなの、もらってない」と言う主力選手は居た。あの時の喜びを"ゼニカネの問題"にして欲しくないという思いが、強いからだろうか(OK)かくして、全球団が頑張った結果、勝率3割5分を切る球団は1つも無かった事となった。まだ"近鉄が存在していた時"に「近鉄バファローズが今在るのは、誰のおかげだと思っている」と関根・武智・小玉らで結成された"パールス会"が、息巻くのも「無理からぬ話」であった(笑)しかし翌年(1958年)、その反動があった(困)緊張感が薄れ、宮崎キャンプからのんびりムードが漂っていた。大阪から移籍の渡辺博之(大阪―近鉄)が、「阪神ものんびりしていたが、年俸で張り合うなどのピリピリした一面があった。ここは、選手の仲が良過ぎる」と驚いた。加藤が監督に昇格したが、"春さん"という愛称さながら、春の様に暖かく、優しかった。それは良いのだが、生き残りで戦った一体感を持続出来ない(落ち込み)酷使した投手をいたわり、起用が甘くなった・・・選手にも"いい人"が、多かった。"人を押し退けてでも、ポジションを獲ろうという覇気"が、乏しかった。関根の周りに若手が集まり、野球談議を交わしていたのが印象的であったが、それはリラックスした「技術の研修会」(困)渡辺が感じた以上に、チーム内の競争が激しい南海から移籍して来た木塚忠助は、ほんわかムードを歯がゆく思った事だろう・・・自身の実力が、"近鉄の野球のレベルの低さ"と比べ、愕然としたという話も(困)結局、年間130試合で29勝しか出来ない惨状でこれは現在も残る「プロ野球歴代年間最低勝率」の.238を記録した(落ち込み)また同年近鉄は、デーゲームを日本生命野球場(通称:日生球場。1950~1996近鉄パールス・バファロー・バファローズの当時の準本拠地。準本拠地としたものの実際近鉄は同球場で主催試合を行う事が殆どであった。理由はナイター設備が在ったからである。一時期阪神高校野球開催時期に準本拠地として使用していた)で行い、近鉄は1957年までは同球場にまだナイター設備が存在していなかった為ナイター開催時は南海の主本拠地・大阪球場を借用して、本拠地としていた。しかし高額な使用料とライバル南海に金を払い続けるのに辟易して来た為、近鉄は1958年からナイター設備を付した日生球場へ完全に移転した。大阪球場を出る時は南海から"恩知らず"呼ばわりをされ、一悶着あったようである。それでも移転を強行した。高い家賃のマンションから自らも改装費の一部を負担した(照明を付けたのも近鉄である)同じ地区のアパートへ移ったようなものであった。同年11月近鉄の監督に巨人で内野手としてならした千葉茂(<現役時代>巨人<監督>近鉄)が就任する事になった。これを機に翌年から近鉄は彼の「猛牛」というニックネームを取って、球団名を"近鉄バファロー"に改める事になる。
 なお弱体投手陣にあって7年間で65勝を挙げた関根は、自ら投手に見切りを付け1957年に打者転向、以後小玉と共に中軸に座り、"弱小"「ピストル打線」を牽引した(炎)他にも武智修阪神軍・大阪―金星―阪急―広島―近鉄)や1954年の23補殺は"外野手最多補殺日本プロ野球記録"(2010年5月まで)。1953年にキャリア唯一の本塁打を打ってから引退の1958年まで「2088打席連続無本塁打」を記録した日下隆(近鉄)らが、脇を固めた。この頃の近鉄は、あまりにもの低迷ぶりに「地下鉄軍団」と揶揄されていた・・・
 次回に、続く。
 参考文献:『ボクを野球場に連れてって』
      『プロ野球データ事典』
      『近鉄球団かく戦えり』
      『<小>熱い心の野球ありがとう 奇跡、感動、涙・・・・・・</小> さらば大阪近鉄バファローズ <小>永久保存版</小> 週刊ベースボール冬季号』([株]ベースボール・マガジン社・2004年)