GRの戯れ言日記

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阪急ブレーブス回顧(1963年~1972年)

 1962年オフに阪急の監督に就任したのは、1960年に大毎をリーグ優勝に導いたものの日本シリーズで敗れ、オーナーと衝突し退団・辞意(諸説あり定かでない)に追い込まれた西本幸雄であった。西本の回想によると、練習から改革を行った。体力が付けば野球が上手くなる訳ではない。練習時間にも選手の集中力にも限りはある。その中で選手達をどう鍛え、技術を植え付けるのか。西本は漫然と続いていたプロ野球の練習方法にも手を加えた。「当時の野球の練習のやり方は、合理的でないのが多くて時間ばかり食うて、選手一人一人の運動量はそんなに無かった。時間を短縮して短い時間でたくさん練習出来るようにしたね。それまで野球界では、非常に封建的な練習方法があった。無駄があって下手くそなのよ。バッティングケージは二つしかない。そこで練習出来るのは二人だけなんだから。」野手をいくつかのグループに分ける。一組はバッティングゲージの中で打撃練習をする、もう一組はグラウンドに散って守備練習をする、ファールグラウンドではバント練習、バックネット前ではティーバッティング・・・同時に様々な練習を行う事が可能になった。現在のプロ野球キャンプ地で見られる風景が、阪急キャンプを張る高知市営球場には広がっていた。「日本のプロ野球で、あのスタイルを初めて導入したのは阪急だったんだよ。理にかなっているから、今でも続いてるんだろうな。効率的に練習をやったもんだから、選手は苦しい苦しいと言っていた。でもそれを続けている内に、目に見えて成果が出たね。選手もそれは感じていた。当時は打ったり投げたりする、その腕とか脚ばかり強化していたけれども、体全体を鍛える、下半身を使って投げる、打つという事を徹底してやった。必ずしも力を入れなくても球が飛ぶんだという事を選手もだんだん分かって来たんだよね。何より下半身の使い方が大事なんだと。選手がそういう感覚を分かって来て、ちょっと強くなって来たなという事が実感出来たね。」
 監督就任2年目の1964年、阪急は79勝65敗6分、勝率5割4分9厘で2位に躍進している。優勝した南海とのゲーム差は、3.5ゲームだった。「確かに2位なったけれども、ピッチャーが良かっただけで、必ずしもチームが強くなった訳ではない。石井茂雄(阪急―太平洋・クラウン―巨人)が28勝、米田哲也が21勝、足立光宏(阪急)が13勝、梶本隆夫が9勝。この4人だけで70勝以上もしている。この時はまだ野手が上半身で野球をしとった。だからピッチャーのチーム。どういう訳か、俺が預かる所は初めはピッチャーが良くて、あとになって打撃のチームになっとるんだよ。」
 1965年“親分”鶴岡一人に率いられた南海は、ジョー・スタンカ杉浦忠の両エースの活躍で3年振り9度目のリーグ優勝を飾った。このシーズンから3連覇を果たす南海の強さは、際立っていた。「とにかく南海ばかりが強くて、2位以下は団子状態だよ。南海以外は、プロの野球になってない集団だった。だから2位といっても手応えは無い南海、その他っていう感じやったね。監督3年目の1965年は4位、4年目の1966年には5位になった。あれが当時の阪急の実力だよね。その頃から南海以外のチームも本気で戦力を強化するようになって来た。リーグ全体のレベルも上がって来たと思う。」2位になれば、次は優勝しかない。そう意気込んでも簡単に勝利は増えない。チーム作りの考え方にも問題はあった。「一度2位になったら次は優勝だという感じになる。球団の偉い人からするとそうなるけど、実に幼稚な考え方だな。2位になったメンバーで戦って行けば優勝を狙えるという、そんな感覚が彼らにはあった。ところがそうはいかんのやね。さらに強化する、先行投資する、という考え方にはならん。その時点で既に親会社には球団に物凄い金を掛けているという感覚があるわけ。こんなに金を掛けているのにちっとも上がって行かないじゃないか、となる。だから俺達の力で球団に金を掛けさせる状況を作ろう、と選手達にも語りかけたんだよ。阪急の時は監督の俺に実績が無いから、何を言っても説得力がない訳や。監督という名前で座ってるけど、こいつは何をする監督なんだ、という風に見られとった。そんな時代だった。」厳しいトレーニングで鍛え上げた選手達は、ようやくプロとしての肉体を備えるようになって来た(それまでは多少の技術があっても、一日中猛練習を乗り切る体力が無かった)。体力の向上と比例して、技術も身について来た。「1966年ぐらいに"これでいけるかな"という感触はあった。優勝出来るかというより、やっと南海と互角以上の勝負が出来るかなという感じやね。南海は、阪急みたいな弱いチームに対しては、力の無いピッチャーを持って来る訳や。接戦になって南海側が勝てるとなったら、エースの杉浦が出て来る。それでお手上げや、もう完全に見下ろされてる感じやね。でもそうしてる内に"うちも強くなって来たな"という手応えはチーム全体にあったと思う。選手一人一人の力量を比べたらまだ劣ってるかも知れないけど、みんなが一つに固まって行けば、相手に楔を打ち込めるだけのチームになって来たと感じていた。苦しい試合に勝てば、連帯感も出て来るんだよ。」そういった状況になったのもダリル・スペンサー(阪急)・長池徳士(あつし)(徳二)[阪急]が、練習・研究熱心の姿勢を見せ、次第にその姿勢がチーム全体に浸透するようになって行き、ようやく阪急はプロの集団へと変貌したといえよう。
 投手のヨネ・カジが健在だったのに加え、足立光宏(漫画『ドカベン里中智のモデルともなった)戸田善紀(阪急―中日)・らが投手陣を支えた。野手では中田昌宏・阪本敏三(阪急―東映・日拓・日本ハム近鉄)・森本潔(阪急―中日)・矢野清(阪急)・岡村浩司ら機動力有り、長打力有りの陣容であった。
 他に西本監督は、前代未聞の監督不信任投票もこの阪急時代に行った事もある。初優勝する前であったが、「監督はいずれ代わる」という雰囲気では練習をいくらやっても効果はない と考えた彼は1966年の秋季練習が始まると、西宮球場の会議室に選手を集めた西本は、便せん用紙を1枚ずつ選手に渡し、「俺と一緒にやりたいなら○、嫌なら×」と自分の進退を問うたこともあるのだ。結局支持が多かったものの、主力選手に×・白紙が多かった事にショックを受け、西本は球団に辞意を申し入れる。ところがオーナーが<特大><太>西本支持を表明、球団へ慰留を指示した。結果監督の熱意に応えたのか、阪急は西本の下猛練習に耐え、悲願の時を迎える。
 パ・リーグでは最古の歴史を持つチームでありながら、優勝未経験の阪急が1967年に初優勝を飾った。しかもこの年から西本阪急は、三連覇(拍手)しかし日本シリーズは、いうまでもなく巨人に栄冠がもたらされるのである(困)この後西本は何度も何度も日本シリーズに出場するが、ついに彼は1度も日本一になる事が出来なかった・・・<その為彼は「悲運の闘将(名将)」と呼ばれるようになる。自分が手塩にかけて強豪にしたチームと巨人のV9時と重なってしまったのも西本にとっては不運であった(落ち込み)しかもこの頃の大抵の野球ファンは、巨人の前に屈したパ・リーグセ・リーグよりも野球のレベルは下だと、日本シリーズの結果だけで判断してしまった(涙)(怒)それほど圧倒的な力を持っていたのが、巨人だというのに。現にセも他の球団は巨人に負けているというのに、一概にそのような判断をするのは早計であった。特に1969年の日本シリーズは、後味の悪いシリーズとなった(涙)阪急の1勝2敗で迎えた第4戦での「岡村退場事件」である!この試合は4回表まで0-3とリードしていたが、その裏6点を失って逆転負け(困)対戦成績をタイにし損ねたばかりか、「品位を欠く」という汚名まで被った・・・問題のシーンは、巨人の4回無死一・三塁、王貞治土井正三が重盗を敢行した時に起きた。打者・長島茂雄は三振だったが、三塁走者土井は捕手・岡村浩二二塁手―岡村と渡る転送球をかいくぐって生還した。岡村はセーフの判定に激高し、ミットで岡田功主審のあごを叩いて、シリーズ史上初の退場を命じられた。際どいプレーだったが、判定に抗議は許されない。問題はこの後だった。この時点でまだリードしていたのに、阪急勢はエキサイトして自滅した。交代した中沢伸二(阪急)は投球をわざとそらし、主審にボール直撃の報復をした。くだんのプレーの前からも際どい球を何度もボール(不利)に判定されたと、全員が熱くなっていたのだ。翌日の新聞に岡村の両足の間から土井の左足が入り、ホームベースを踏んでいる写真が掲載された・・・これで阪急の抗議は、ただの暴力事件と位置付けられてしまった(激怒)西本は「タッチしたかどうかが問題なのに、いつの間にやら足がベースに届いたかどうかの話にすり替わった」と憤然とした。真偽はともかく、世の中がよほど判定などが露骨にならない限り巨人が勝った方が、安心・良好といった空気というか不文律のあった時代にも見えますね(怒)翌1970年、V4を狙った阪急は、打線の不調が響いて、よもやの4位に沈む・・・
 まぁしかし阪急が本当の意味での強さが備わって来たのは、加藤秀司(英司)[阪急―広島―近鉄―巨人―南海]・"世界の盗塁王"福本豊・「サブマリン投法」の山田久志(<現役>阪急<監督>中日)が、レギュラーになってからといえるであろう。特に山田の場合は投手であるから、過渡期にあった阪急投手陣にとって彼の台頭は不可欠だと西本は判断した。山田もよく走りよく投げて、頑丈な身体を作り、大エースへと成長して行った。この頃になると、もはや阪急は「パ・リーグで優勝して当たり前!本当の勝負は、日本シリーズで巨人に勝つ!」というチームになっていた。特に1971年は、山田が22勝・奪三振189個。福本は67盗塁をマークして、2度目の盗塁王を獲得し、3人の中で出遅れていた加藤秀もリーグ2位の打率3割2分1厘をマークしていた。スーパースター揃いの巨人に見劣りしないだけの戦力を整えていた。しかし巨人との対戦、日本シリーズのプレッシャーはそれまで経験した事の無いものだった。福本曰く「お客さんがいっぱい入ってるという、ああいう雰囲気は日本シリーズが初めてでしたね。球場に居るのは殆ど巨人ファンやから、フライが上がっただけで"ウォー!"となる。フォアボールが出ただけで凄いピンチになった気になる。王貞治さんと長島茂雄さんが同じグラウンドに居るだけで"ファーッ"となるのに。そんな状態でいつも通りのプレイが出来る訳がない。シーズン中はいつもガラガラの球場でやってるから、動揺するんですよ。あんな経験は日本シリーズが、初めてでした。西本監督が日本一になってなかったから、僕らにも"優勝させなあかん"というプレッシャーはあったんやろうね。当時の巨人は、どうしようもないくらい強かった。格が違うんですよね」。独特な雰囲気の中で行われる日本シリーズ王貞治長島茂雄という巨大な壁。怖いもの知らずだった23歳の山田は、完膚なきまでに打ちのめされる。1勝1敗で迎えた第3戦の事であった。このシリーズの下馬評は、阪急有利であったが・・・完封寸前の山田が、9回二死一・三塁で、王に逆転サヨナラスリーランを浴びた試合。3戦を終えて1勝リードの優位に立つはずが、一気に暗転した{困った}このあと第4・5戦も連敗し、4度目の挑戦も退けられてしまった。王に真っ向勝負を挑んで打たれた事に、山田も西本も悔いは無い。問題はその前、二死一塁で、長島に打たれたセンター前安打である。二塁ベースと遊撃手・阪本の間へ転がる、詰まった当たりだった。「ゲームセット」と湧き立ったが、阪本が打球方向と一瞬逆へ動いた為、安打にしてしまった!!アウトステップした長島の強振が、阪本の判断を狂わせたとしか思えない・・・試合終了のはずが、一転一・三塁と傷口を広げた・・・何とも悔やまれるワンプレーだった(困)その年の暮れ、阪急は岡村・阪本と、東映の捕手・種茂雅之(東映―阪急)、遊撃手・大橋穣(ゆたか)[東映―阪急]を換する複数トレードを行った{汗}守備力強化を狙って、同じポジションの選手を入れ替える大胆なトレード(ドクロ)主戦捕手岡村と、スペンサー曰く西本阪急の"陰のMVP"阪本を同時に手放すのは、勇気が要った。それもこれも、日本シリーズで巨人に守備力の差を見せつけられたからか・・・西本にとって、強化に感傷は無用だった(炎)この雪辱をバネに阪急は、仮想敵を巨人のみとするチームとなる。春のキャンプから、既に"打倒巨人"を旗印にしていた模様。しかし翌年もリーグ優勝し<下線>二連覇するも、日本シリーズではまたしても巨人に惜敗・・・次回に、続く。
 参考文献:『プロ野球データ事典』
       西本幸雄著・元永知宏構成・文『パ・リーグを生きた男 悲運の闘将 西本幸雄』(ぴあ株式会社 2005年) 
      浜田昭八 著『監督たちの戦い』(日本経済新聞社 1997年)
      浜田昭八 著 日経ビジネス人文庫近鉄球団かく戦えり』(日本経済新聞社 2005年)