GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

阪急ブレーブス回顧(戦前編②)

 西宮球場は、シカゴ・カブスリグレー球場とクリーブランド・インディアンスの球場を参考にする事に決め、建設に取り掛かった。日本で初めて二階席を設け鉄傘の屋根を付ける事、内・外野スタンドの傾斜の焦点を本塁に絞って見易くする事の他に、この時代で早くも「将来、ナイトゲームが行われるようになった時にいつでも照明設備を設置出来るようにする」と付け加えられた辺りが、先進的だった。収容人員は何と5万5千人(ドクロ)阪神と阪急のライバル意識はすさまじく、それが野球という分かり易い舞台で争う事となった。だからこそ、5万人以上収容出来るスタジアムが、西宮市という一地方都市に同居したのだ。当時はまだ、東京にも大阪にもこれだけの規模の球場はなかったのだから、凄い話である。西宮球場は大リーグの球場を手本にしている事もあって、どこかアメリカ風のイメージが漂っていた。この時代は今の高校野球の様に試合開始前・終了時にはプロ野球でもサイレンを鳴らしたが、西宮球場だけはベルであった。当初は、阪急・西宮北口駅と球場を直結させ、電車を降りたら直ぐ球場の入り口という構想であったそうだが、駅のそばにどうしても買収に応じない土地があって画期的な構想は、実現しなかった(涙)
 阪急電鉄も「阪急軍」という球団名でを球団を創設した。阪急の他、7球団が集まり「日本職業野球連盟」という日本初のプロ野球組織が設立されたのであった。つまり阪急(オリックス)は、"現在のプロ野球が創設された時から存在していた球団であるといえる。これらのチームで最初に行われた公式戦が、1936年の4月29日から5月16日まで甲子園球場で、参加各チーム総当たり形式で開催され、その後名古屋の鳴海球場(1927~1934名古屋金鯱軍の当時の本拠地。1958閉場。中日球場中日スタヂアム・現:ナゴヤ球場・1949~1996中日ドラゴンズ名古屋ドラゴンズの本拠地、1997~二軍の本拠地。1975年からナゴヤ球場と名称変更】が火災になった事もあり、同球場の代替の本拠地となった事もある)と兵庫の宝塚球場で勝ち抜き戦が行われた。一見良い形で滑り出したかに見える公式戦だったが、実はこれ本当は、とんでもなく中途半端なものであったのである。何故ならこの公式戦には、巨人が参加していないのだ。この時巨人は「こっちにも別件の予定が有るから・・・」という感じで、以前から決まっていた第二回目のアメリカ遠征に出発していて日本を留守にしていたのである。この頃から既に巨人のわがまま・身勝手な行動が見受けられるのも興味深い。これはもはや伝統ではなかろうか?とも思える。他にも名古屋金鯱軍も地元名古屋と兵庫の試合には参加せず、九州と朝鮮への遠征に出かけてしまったのである。結構勝手な行動が目につくスタートであった。だから、4月から始まった公式戦で全球団が全て揃って試合をしたのは、やっと7月になってからであったらしい。  この年の5月5日には阪急軍西宮球場がオープン。宮武三郎(阪急軍)・山下実阪急軍名古屋軍)・山下好一(阪急軍)ら、当時の東京六大学野球のスター選手を揃えたが、戦前の最高順位は、1941年の2位(汗)野口二郎東京セネタース・翼軍[現:北海道日本ハムファイターズ]―大洋軍[のちの大洋ホエールズ<現:横浜DeNAベイスターズ>とは無関係]・西鉄軍[一応現:埼玉西武ライオンズ]―阪急軍・阪急)森弘太郎(阪急軍・阪急―東急[現:北海道日本ハムファイターズ]―西日本)・"ヘソ伝"こと守備の名手であった日本人名であるが実際は外国人選手であった山田伝(阪急軍・阪急)など数々の名選手を輩出しながら、チームとしての総合力に欠け、人気の面でも大阪野球倶楽部(大阪タイガース・阪神軍)に及ばなかった(落ち込み)特に野口は、投手として実働12年で登板517試合、通算237勝も挙げ、打者としても通算830安打を放った(炎)
 やがて日本のプロ野球球団は増加し、9チームとなった。何となく隆盛を極めるかに見える日本のプロ野球であるが、時代は段々と戦争の色彩を極めて行く。1940年ついに戦争はプロ野球の世界にも暗い影を落とすようになる。前年の3月に「日本職業野球連盟」から「日本野球連盟」という名前に改称した連盟は、戦時の新体制運動に協力する為に、英語使用を自粛しようという事を決めたのである。先ず各球団のニックネームが廃止され、さらにこの頃から兵隊に取られる選手が多くなり、日本のプロ野球チームは元の8球団に戻った。周知の通り同年12月になると日本は、アメリカをはじめとした各国を相手に太平洋戦争を開始した。こうなると当然、アメリカ生まれの野球は敵性スポーツと言われ、ますます立場を失って行く。しかし翌年の1942年4月18日の阪神軍対名古屋軍戦が初めて空襲警報発令でノーゲーム(中止)になる。やがて2つの球団が消滅してしまい、残り6球団となった連盟は、翌年の1944年の初めに、名称を「日本野球報国会」と改めそれでも尚、新たなシーズンに向かって準備を開始した。この辺りになると空襲も激しくなり、日本人の生活は生きるか死ぬかといった状況であったのに、大胆にもまだプロ野球を続行しようとしたのである。各チームの選手は軍需工場や親会社に動員されつつも野球を続けていった。しかしシーズンは何とか4月から始まったが、残念ながら8月で中断を余儀なくされてしまう。これは試合をしたくても、多数の選手が徴兵され選手不足により試合をする事が出来なくなった球団が、続出したからである。それでもまだプロ野球継続の努力は、続けられた。9月9日に残り少なくなった各チームの選手を集めて、2つの連合軍(阪神軍・産業軍[一応現:中日ドラゴンズ]連合が「猛虎軍」、阪急軍朝日軍連合チームが「隼(はやぶさ)軍」)が結成される。この2チームは「日本野球総進軍大会」というのに出場し、甲子園・西宮他の各球場で、9日間にわたって熱戦を繰り広げた。同年の1月には西宮球場は金属回収の為に観客席の屋根等が解体されていたし、その試合環境は殆ど悲惨な状況で行われていたのであった。</太>ただしこの大会が戦前最期の大会ではなく、実際は阪神軍・産業軍・阪急軍朝日軍(現:横浜DeNAベイスターズ及び千葉ロッテマリーンズ)は1945年1月1日から5日まで甲子園と西宮を会場にしたオープン戦「正月野球大会」を行っているので、この大会が戦前最期のプロ野球の大会である(汗)このプロ野球継続の行動はとてつもなく凄まじいものであった。しかし色々と手を尽くし、世間や権力の目をごまかし、ごまかしやって来たが、ついに最期の時がやって来たのであった。同年の11月13日、日本野球報国会は、「切迫した時局に鑑みて、プロ野球を一時中止する」と発表したのである。随分と昔に時局は切迫していたのだが、よくここまで続けられたという感じであった。
 なお阪急の戦前の順位は、1936年は2位以下は設定されていなく(汗)1937、38年(両年は、春・秋の二季制)から順に、4・7位、3・3位。現在と同じ一季制になった1939年からは、3・3・2・4(同率)・7・3位であった。次回に、続く。
 参考文献:坂本邦夫 著『プロ野球データ事典 ひいきチームの主力選手のすべてが一目でわかる!』(PHP研究所 2001年)
      佐野正幸 著『あの頃こんな球場があった 昭和プロ野球秘史』(草思社 2006年)
      ベースボール・マガジン社 B.BMOOK『球場物語』《(株)ベースボール・マガジン社 2005年》