GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

絶対に外せない話

 相方(兄)に先立たれても肩書きとしては、漫才師であった喜味こいし夢路いとし・喜味こいし)氏が、昨日に亡くなられました。言うまでもなく漫才界では、至宝でしたよね。俗にいとこい師匠・いとこい先生と呼ばれていましたね。
 →いとし師匠とは兄弟で、幼少の頃は家族で旅回りの劇団に所属していました。変声期を迎え「大人とも子供ともつかんような中途半端な年齢」に差しかかっていた2人はチンピラ劇に出演するようになり、そこで漫才のような掛け合いを演じました。ある時2人は共演者に掛け合いが面白いと評価され、漫才師に転向するよう勧められました。荒川芳丸に弟子入りすることになり、2人に荒川芳博・芳坊という芸名をつけました(芳博が後の夢路いとし、芳坊が後の喜味こいし)。1943年、弟のこいし師匠が山口県の軍需工場に徴用され、コンビは活動停止を余儀なくされたました。師匠は、1945年8月6日に被曝したが幸い重い原爆症を発症することはなく、終戦後間もなく大阪へ戻りました。芳坊(後の喜味こいし)が大阪へ戻ってしばらく後に、2人は山田博・勲として活動を再開させた。のちに芸名を夢路いとし・喜味こいしに改めました。1949年12月、いとし・こいしは秋田実が番組構成を担当した全国放送のラジオ番組『上方演芸会』に定期的に出演するようになった。『上方演芸会』出演をきっかけにいとし・こいしは若手漫才コンビとして名が売れるようになり、漫才に軸足を置きつつ、『がっちり買いまショウ』の司会を務めたのを始めとして、テレビ、ラジオ、映画、演劇など様々な分野で活躍するようになりました。本業の漫才では第4回上方漫才大賞の大賞(1969年)や第5回上方お笑い大賞の大賞(1976年)など、数々の賞を受賞しました。世代を問わず高い支持を集めることに成功しました。←は、Wiki参照です。
 当初はいとし師匠がツッコミでこいし師匠がボケでしたが、いつからか役割が逆になりました。コンビ時代は、最後の最期まで"時事ネタ"を出来るだけ入れ・"本格派しゃべくり漫才"にこだわった方々でしたね(燃)2001年~2003年までABCテレビ『今夜はちょっと気晴亭』(月1の番組)では、レギュラーを務め、毎月新ネタ漫才を披露してましたから。自身でネタを書かれてたか、作家の先生が書かれてたか、共同で書いてたかは定かやありませんが、この事からも時事ネタにこだわってた所がうかがえます(ラブ)他には血が繋がっていてても、第一人称を「僕」第二人称を「君」と呼んだり、関西弁で下品に相方を罵倒する様な言葉遣いをしない、つかみで客いじりをせずに相方の嫁いじり以外は直ぐに本ネタに入る等、やんわり・ゆったり漫才の割には、結構その中には色々こだわりがあったように思います!そういう意味では、上方漫才の中では異色であり珍しい漫才スタイルの存在やなかったでしょうか?それでいて舞台の上では、一切そういう所は見せずに、あくまで日常会話の様に普通に喋ってる(会話してる)だけやのに、笑いが巻き起こるという「自然体漫才」やなかったでしょうか!?私見ながら、このスタイルは個人的に今の漫才界で近い存在は、矢野・兵動やないでしょうかね?本当に彼らは、自然体ですもん。ただいとこい師匠の様にはなれんでしょうし、そういう言い方はいとこい師匠にも矢野・兵動にも失礼ですし、それぞれに持ち味があるからどっちがどうとかは言いません。今はコントに近い発想型の漫才が全盛ですから、真逆の芸風やったと言って良いでしょうね。僕も今この世界に酔いしれてますけど、また自然体漫才の時代が来るものと思われます!ただこれで上方漫才(お笑い)の重鎮が1人居なくなり、和光プロダクション所属であられたこいし師匠であられたので、ますます吉本の顔が大きくなるやろうなと勘ぐったり、被害妄想が浮かんで来ます(笑)笑い飯も2004年頃に西田幸治:「大じきにいや、中じきに」、「あっ、正直に」中西哲夫(哲夫):「それ、いとしこいしのネタやないけ!」ってネタを少しパクッてたくだりが、ありましたね。あとあと問題ありと見たか、「いとしこいし師匠の」って"師匠"を付けて言うようになりましたが(ウインク)あまり誰を模倣しないような二人の笑い飯が手本というか引用したぐらいやから、やはりいとこい師匠は見本にされる程の存在やったという事でしょう。能勢ヒロシ(ビーグル38)のおじいさんの扮装と喋り方も、こいし師匠のもの真似なんですよ!! 
 本当にお二人は、偉大な方々でしたよ(拍手)ありがとうございました!!これからも天国からお笑い界を温かく見守っていて下さい(涙)