GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

大阪近鉄バファローズ回顧(1968年~1973年)

 1968年にようやく知将・三原脩の招聘に成功した近鉄は、安井・伊勢・土井・啓示・永淵・小川といった若手が主役に顔を揃えるようになった同年に4位に浮上すると、翌1969年はチーム初の12連勝を記録するなど、一時は首位に立つ健闘を見せた(力こぶ)最終的には2位に終わったものの、終盤まで優勝を争った事はチーム創設以来「万年最下位」と呼ばれ、苦々しい思いをして来たファンを大いに沸かせた(大笑)三原が説いた意識改革の根底にあったのは、発想の転換。それが決定的になったのは、監督就任1年目の1968年の開幕の西鉄3連戦に3連勝した事であり、さらには4月を14勝4敗と開幕ダッシュに成功した事だった。結局68年は6月まで首位を走ったものの、夏場以降に失速(落ち込み)4位に終わるも選手達に「自分達でもやれるんだ」という自信を与えるには十分な内容。オフに家族の問題もあり、退任を申し入れた三原も、強い慰留に続投を決意した。
 監督としての三原を評すると、預ける戦力の良し悪しで名将は凡将に落ちる事があるし、その逆もある。「監督の力で勝つ試合なんて、年間にいくつある?」は経営者だけではなく、野球ファンも抱く疑問には違いない。しかし三原のように監督に就任するやいなや、弱小チームを劇的に変える人物が居る。球団創設から日も浅い西鉄を3年連続日本一の強豪に作り変えたし、万年最下位の大洋を一気にチャンピオンへと引き上げた。1968年から1970年まで3年間指揮をとった近鉄でも、そうであった。4、2、3位と優勝は逃したが、"三原前"と"三原後"とでは、チームは明らかに違った。"三原前"の近鉄は1950年の球団創設以来18シーズンで最下位13度、Aクラス入りは1954年の4位だけという絵に描いたような弱小チームだった。"三原後"は殆ど毎年優勝争いに絡むようになった。三原2年目の69年には、阪急と最後までデッドヒートを演じたが、三原が辞任してからも戦うムードは残っていた。三原は世に伝えられる"三原魔術"という言葉を嫌った。では三原は、どんな手を使って負け犬たちの意識を変え、勝てるチームに作り変えたのか。就任までの輝かしい実績がモノをいい、黙っていてもチーム内に緊張感が漂った。岩本、小玉と、怖くない監督が続いたあとだけに、ナインは余計に身構えた(汗)ところが三原は、意外に優しかった。コーチ達には「選手には、あまり難しい要求をしないように」とクギを刺した。"このチームは、高度な野球をこなすほど、まだ成熟していない"と見たのか、投の啓示、打の土井という「芯」は存在していたから、「脇役」をどう組み合わせるかがチーム作りのカギとなる。大洋の監督時代に"超二流"選手を巧みに使った手法が、ここでも用いられた(OK)大洋では、近鉄で浮いていた遊撃手・鈴木武を緊急補強で獲得し、蘇らせた(キラキラ)外野の金光秀憲(大洋)、代打男・麻生実男(大洋―サンケイ)らも味のある活躍をした。近鉄では、安井・鎌田実(大阪・阪神近鉄阪神)・小川を相手投手によって組み替え、一・二番で使った。投打の二刀流で売り出した永淵は、直ぐ打撃に専念して三番を打った。1969年には張本勲首位打者のタイトルを分ける一流打者になった。この他"伊勢大明神"と三原が呼んだ勝負強い伊勢、捕手の岩木康郎(近鉄)らが、総力戦を仕掛ける三原野球の戦力になった。小玉が阪神へ移籍し、三塁には広島から獲った阿南準郎(潤一)[<現役時代>広島―近鉄<監督>広島]をはめ込んだ。打撃は小玉に及ばなかったが、三原が進めようとする「相手のミスを突く野球」の推進役として、打率以上の活躍を見せた。投手陣では西鉄から移籍の清俊彦(西鉄近鉄阪神)が1969年から4年連続2桁勝利を挙げ、板東は先発・中継ぎ・抑えの3役をタフにこなした(拍手)相手の出方を見て柔軟に対応する三原作戦は、選手起用が多くなり、チーム内の競争を促した。歴代の監督は選手層の薄さを嘆いたが、"三原は「選手層を厚く見せかけて使う」事でしのいだ"のである(燃)
 1969年の阪急との競り合いは、選手にとって大きな自信となった。4月下旬から9連敗して沈みかけて「やはりダメか・・・」と思わせたが、5月に1引き分けを挟む12連勝をして盛り返した。18勝1敗2分けの猛攻で一気に巻き返すと、その後一進一退の攻防を繰り広げ、大詰めの2位阪急との4連戦を残して2厘差で首位に立った(驚)だが、10月18日の西宮球場でのダブルヘッダーに連敗して窮地に追い詰められ、翌19日の藤井寺で2対3で敗れて3連覇を目指す西本幸雄率いる阪急に力負けし、初優勝の夢を断たれた(涙)終盤の盛り上がりで大入りが続き、良い試合・激しいペナント争いをすれば観客は集まると、関係者は自信を強めた。それと同時に"パ・リーグのお荷物"を注目チームに変貌させた三原に、改めて賞讃の声が寄せられた。しかし!"終盤の盛り上がりで大入りが続き"と書いたが、「近鉄らしい裏話」が在ったそうで(落ち込み)藤井寺での2試合は、珍しくNHKテレビの全国中継があって、作家の佐野正幸が、札幌でテレビ観戦していたらしいが、先ず気付いたのは当然満員になるはずの外野席に人が居ない事(汗)あとで知ったが、観客が入りすぎると、フェンスの低い外野席は危険だという理由で入れなかったとの事(まだ芝生席だった)"・・・何とも「間の抜けた話」で(困)みすみす入場料収入を放棄していたのは、まさに近鉄らしく"お金の使い方が下手"を体現したエピソードですなぁ!!三原は"三大監督(三原・水原茂[円裕]・鶴岡一人)"と呼ばれた内の1人であったが、二人とは距離を置いていた。水原と鶴岡は、ウマが合ったが・・・"情"の2人とは違って三原には"ビジネスライクな姿勢を貫く一面"が、目立った(汗)明治生まれの男には珍しく、契約ではシビアに要求を通そうとした。しかし人間的な好き嫌いは別として、鶴岡は三原を「監督の価値を世間や経営者に認めさせた」と、同業者としての功績を讃えた!三大監督の時代は、投手を当たり前の様に酷使した(困)とりわけ三原は、西鉄稲尾和久、大洋で秋山登をすさまじいまでに集中的に使った・・・近鉄でも「あの人の投手起用を見ていると、ここに骨を埋める気など全く無い事が分かる。自分は次の球団へ移って契約金を手にするだろうが、次にここでやる監督の事を考えてやらなきゃ・・・」という批判を浴びた。これに対して三原は「稼げる時に稼がせてやるのも監督の務め。ソロリソロリと使っても、来年、再来年に稼げる保証はありますか」と反論した!!まさに三原の信念でもある「花は咲き時、咲かせ時」である(炎)近鉄のエース・啓示が稀にみるタフな投手で、過密登板にも平気で耐えたのが、三原には幸した(ウインク)1970年の3位を置き土産に三原は、監督を辞任。
 それでも1969年は、啓示が24勝で最多勝、清が最高勝率、永淵が前述の通り首位打者を受賞。さらにオフのドラフトで、当時大人気だった三沢高校太田幸司を獲得したのは、人気面・経営面で大きかったなんてものではなかった(この投手と評については、後述)(ウインク)三原最終年の1970年も好ダッシュを決めながら打撃陣が不振で失速・・・それでも閉幕間際に5連勝し阪急をかわしてAクラスを死守したのは、チーム全体が成長した証だ。さらにそんな中で佐々木宏一郎(大洋―近鉄―南海)が、南海相手にチーム2人目の完全試合を達成したのも、明るい話題だった(大笑)三原の後任監督は、鶴岡一人で一本化していたが、土壇場になって健康上の理由から断念(落ち込み)その為岩本尭(<現役時代>巨人―大洋<監督>近鉄)コーチを昇格させたが、3位をしっかり確保(力こぶ)阪急・ロッテの上位2球団からは大きく離されたが、啓示が5年連続20勝以上をマーク。試合内容が評価され始め、太田人気も後押ししてテレビ中継も増えた。そこで岩本監督は、球団に対してドラフトでの積極補強を進言。二軍(若手)の充実こそが、球団全体の強化への近道という持論からだった。1972年は極端な1年で、走り出したら近鉄特急並みに飛ばしまくるが、一度停車するとかつての地下鉄時代の様な連敗・・・充実の投手陣に対し、打撃陣は世代交代の時期にあった事が原因の1つだったが、南海・東映との2位争いを制した集中力からは、かつての勝負弱さは感じられなかった。投手陣に故障者が続き、最下位に終わった1973年限りで岩本は退任(9月末から休養・代理監督は、島田光二[<現役時代>近鉄<監督>近鉄])するが、同年二軍がウエスタンを初制覇。岩本が蒔いた"種"は、確実に育ち始めていた。
 当時のパ・リーグを"不遇・苦悩"の面から書いているのが、浜田昭八の『近鉄球団かく戦えり』なんで、こういった"近鉄回顧とはいささか離れた書き方"になってるのは、ご容赦くださいませ、以下の文もそうなります(すいません)東京六大学・東都大学や社会人野球の有力選手にプロ入りする時の希望球団を尋ねると、「在京セ・リーグ球団」と答える。「在阪パ・リーグ球団と言う選手は、殆ど居ない」と嘆いたのは、近鉄でスカウトを長年務めた中島正明だった。西日本出身者でもそうだった。理由は極めて単純明快だ。「子どもの頃からテレビで巨人を観ていたから、親しみを感じる」在京セといっても、それはヤクルトでも大洋でもなく、8割方は巨人志望だ。その対極に位置するのが、近鉄や阪急だった。こちらも理由は、簡単。「よく知らないから」。情報が乏しいから、親しみようがないし、憧れるチャンスも無い。近鉄や阪急のスカウトは、ドラフト指名の了解を取り付ける事から入団交渉にかけて、どれだけ苦労する事か!
 そんな状況の中で近鉄は、1969年オフのドラフトで「甲子園のアイドル・プリンス(殿下)[冠]」太田幸司を敢然と指名した(驚)彼も例外ではなかった、プロ入りに際しては実力を鑑みても自身は「12球団OK」の姿勢を示したが、ファンの球団は巨人、好きな・憧れの投手は阪神村山実であった・・・太田は長い春夏の甲子園高校野球大会の歴史の中でナンバーワンといえる人気者だった。青森三沢高のエースとして、同年夏の大会の決勝戦松山商業高校と対戦。延長18回を一人で投げ抜いて引き分け。翌日の再試合でも完投して惜敗した(拍手)端正なマスクもてつだって太田が黙々と投げる姿は、女性ファンの心をとらえて大騒ぎとなった。球児に人気があるとはいえない近鉄が、その超人気者にアタックした背景には、様々な事が在った。当時の近鉄は三原を監督に迎え、チーム力も人気も上向きだった。このチャンスを逃す手は、なかった。三原は太田の将来性に多少の疑問を抱いていたらしいが、営業サイドの盛り上がりに水を挿す訳にはいかなかった(ダメ)さらに太田の甲子園での大活躍にも拘わらず、各球団のスカウトの評価が、意外に低いという事情もあった。入団してからの騒ぎは、凄まじかった(大笑)入団発表の会場へもファンが押し掛けた。これまで準本拠地(といっても、実質本拠地)であった日生球場には、「女子トイレが無かった」が、太田の入団により客層がガラリと変わった為"女子トイレが、設置される"事となった(汗)翌春の延岡キャンプでは、近鉄の球団史上で類を見ない報道陣が詰めかけた。アイドル歌手の"追っかけ"並の親衛隊も出現した。太田はオープン戦にも帯同し、行く先々で観客を集めた。打者の仕上がり状態が、遅れていた時期は「さすが、甲子園のヒーロー」という投球を見せた。だがシーズンに入ると、どこも容赦なかった(涙)太田が惨めな思いをしたのは、オールスター戦だった・・・1970年は1勝しただけの時点でファン投票で選ばれた(困)ベンチでは居並ぶ猛者の中で、(こんな結果で選出されて、申し訳無くて)小さくなっていた。3戦共に少イニングの"顔見せ登板"をした(落ち込み)71年は1勝もしていないのに、またファン投票で選出された(涙)72年はシーズンで2勝を挙げたが、0勝の時点で3年連続ファン投票1位だった(困)甲子園での第3戦に先発して3回、3安打・1失点で負け投手になった。投球内容はまずまずだったが、自分の為に実力派が一人、晴れ舞台へ上がるチャンスを失っているのかと思うと、気が重かった・・・じっくり育てると限りなく伸びたであろう才能。それなのに、せっかちなファンとマスコミ、観客動員の切り札にしたい球団の思惑によって、無理矢理早く表舞台へ出された(落ち込み)幸だったのは、太田が見かけによらず精神的にタフだった事だ(力こぶ)入団4年目の73年に6勝を挙げて、ようやく本物の一軍投手らしくなった!翌74年からは10・12・9・10勝(OK)負け数が多く、安定感はやや乏しいが、ニックネームの"殿下"が似合う雰囲気を漂わせるようになった!!73年にブレイクしたのには、理由があった。日大桜丘高校のエース、前年春の甲子園大会優勝投手の"ジャンボ"こと仲根政裕(正広)[近鉄―中日]が、入団したのだ。太田獲得で近鉄は、"ドラフト指名でしり込みしてはイケナイ"という自信を掴んだ。大型人気球児の入団に元祖アイドルが刺激され、なりふり構わず練習し、勝てるようになった。これで仲根が太田ぐらいのテンポで成長すると「近鉄のON」として人気は大いに盛り上がっただろう。残念な事にジャンボの成績が、スモールに終わったのだ(涙)仲根は193cmの大型投手。高校生が相手なら力で通用したが、プロではそうはいかなかった。内角を大胆に突けない気弱な一面もあった。太田が後へは引けない気持ちで青森から大阪へ乗り込んだのに対し、都会っ子の仲根は東京にこだわり、関西に馴染めない様子だった。投手を5年やったが、打者への転向が少し遅かった(困)外野守備でも苦労して、1988年に中日へ移籍。代打で19度起用されたがノーヒットに終わり、その年限りで引退した・・・主力投手への道を順調に歩んでいたと思われた太田も、78年を境に成績が低下し始め、79年は少し持ち直したものの、高校時代からの肩の酷使も影響したか?故障もあり登板機会も激減(困)本家・巨人のONは16年間、競い、励まし合いながら同時にプレーした!近鉄のONは10年間、同じチームに居た。Nの入団でOが輝いたが、Nの足踏みに最後はOまでが歩幅を合わせた格好だった・・・といった経緯が、今後の近鉄の運命を変える事になるのか!?
 次回に、続く。
 参考文献:前回と同じ。
      佐野正幸 著『あの頃こんな球場があった 昭和プロ野球史』(草思社・2006年)