GRの戯れ言日記

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大阪近鉄バファローズ回顧(1956年~1967年)

 巨人の二軍監督の千葉監督就任での巨人への「見返り」は、"キャンプ地"だった。球団創設9年目で生え抜きのリーダーは、まだ育っていない。そこで人材を巨人に求めた。「伝統ある巨人の血を注入し、球団の近代化をはかる」という名目だった。"巨人は球界発展に度量の広さを示し、貴重な人材を後発球団の近鉄に譲った"が、定説になっている。だが、巨人内部の事情も絡んでいた。親会社読売新聞は当時、西日本での販路拡大に力を注いでいた。「関西に巨人の親戚の様な球団があれば、都合が良い」。さらには次の重要拠点の九州にも、進出の足掛かりを求めたい。近鉄が6年続けてキャンプを張っている宮崎の評判が、良い。千葉の譲渡話を渡りに船と、宮崎の"トレード"を申し入れた。1959年から近鉄愛媛県今治へキャンプ地を移し、巨人は宮崎へ移った。その後、近鉄はキャンプ地を何度も移したが、巨人は今に至るまで宮崎に腰を据えている(汗)千葉は三顧の礼をもって迎えられただけあって、千葉の希望は受け入れられた。移動車や練習設備もグレードアップされた。しかし田宮謙次郎の獲得に失敗するなど、戦力補強は遅れをとったのが、千葉の誤算であった(落ち込み)キャンプを張った今治球場の外野フェンスには、「腰で打て」・「腰を回せ」とペンキで大きく書かれた。"基本を大切に、地道にやろう"という千葉のメッセージだったが、選手はエリート球団から天下りして来た監督が、自分達を見下し、子ども扱いしているように受け止めた投手陣にも「低めに、低めに」を繰り返すばかり。"巨人の高度な野球を持ち込むのではないか"と、勝手な「幻想」を抱いていた選手は、失望の色を隠さなかった。開幕すると、千葉は選手の闘争心の無さ・プロ意識の低さを少しずつグチるようになった。「猛牛」の愛称とは裏腹に千葉自身が、きわめてデリケートな神経の持ち主であった。優しい面があり、選手を管理する上で邪魔になった。出来の悪い選手を切り捨てる程選手層は厚くないし、冷酷に振る舞えない千葉の性格も障害になった。投手陣ではグレン・ミケンズ(近鉄)が日本の野球に慣れるのに手間取り、大阪から移籍の大崎三男(大阪―近鉄)は全くの期待外れで(困)ベテラン・武智も不振、僅かに新鋭・蔦行雄近鉄―広島)の奮闘が目立つぐらいで、台所は火の車であった・・・緊急補強を考えたが、球団の財布の紐は固い!思うように動かぬ駒に苛立ち、千葉は次第に落ち込んで行った。そして早くも1年目の6月18日、12勝39敗の成績を残して休養という事態になった(涙)代理監督は、林義一大映―阪急)投手コーチ。当初は1ヶ月もすれば千葉復帰の見通しだった。だが千葉は、心身共に疲れ切っていた。取材を重ねると、事態は深刻だった。「千葉は、今シーズンいっぱい休養」と報じられた。千葉が復帰したのは、翌1960年。同年新人では矢ノ浦国満(近鉄―サンケイ―巨人)、板東里視近鉄)らが主力へと成長し、途中入団のジャック・ブルームフィールド(近鉄―南海)も主軸打者として健闘したが、5月末から最下位に完全定着してしまった・・・1年目に続いて最下位に終わった。1961年、年間103敗(勝率.261)の現在でも「シーズン(年間)歴代最多敗戦記録」を残した(困)3桁敗戦もこの時の近鉄以外、どこも経験していない壊滅状態となった(ドクロ)15勝を挙げ球団初の徳久利明(近鉄西鉄)でもリーグワーストの24敗。これでは三顧の礼で迎えた千葉の更迭もやむを得ず・・・千葉が去ると、ブルーム、ミケンズら両外国人の活躍があったものの、投手陣では徳久・久保征弘(近鉄―中日―阪神)、打撃陣では関根・小玉に続く人材の不足が深刻で、他チームの中堅選手を盛んに補強した。
 それでも下位に喘ぐチームにあって一条の光明になったのは、安井俊憲(指導者となってからは、智規)[近鉄]・伊勢孝夫土井正博近鉄―太平洋・クラウン・西武)・鈴木啓示・永淵洋三(近鉄日本ハム)・小川亨近鉄)ら若手の台頭だった。中でも「17歳の4番打者」(「18歳の4番打者」とも言われたが、より若い年齢の方が宣伝効果がある為、4番に就いたのは18歳時だったどころかこの時点でも下位に座る事が多く実際に4番として定着したのは、19歳であったが、17歳に引き下げられた)のキャッチフレーズで1962年に鮮烈デビューした土井の登場は衝撃で、それまでのひ弱な球団イメージ徐々に払拭する原動力となった。「戦力になったのは、"Bちゃん"だけだった。それと"ハクさん"の温厚な人柄が、ギスギスしたムードを和らげてくれた」千葉が監督だった頃の回顧談になると、近鉄OB達の話題は必然的に元巨人勢の事になる。千葉監督就任と共にコーチ・平井三郎、投手・後藤修(松竹・大洋松竹・洋松―東映大映ー巨人―近鉄―南海―西鉄)、内野手内藤博文、外野手・川上義信(巨人―近鉄)の4人が、巨人からやって来た。1960年は、コーチ・新田恭一、樋笠一夫、投手・大友工司、捕手・竹下光郎(巨人―近鉄)、内野手・松下秀文(巨人―近鉄)、外野手・十時啓視(巨人―近鉄)、加倉井実(巨人―近鉄)の7人。1961年は、内野手・岩下守道(巨人―国鉄近鉄)。大量輸血で体質を変えるような元巨人勢の流入だった。短期間のこれほど集中的に同じ2球団の間で移籍が成立したのは、空前絶後といえるのではないか。竹下は、藤尾茂(巨人)・森祇晶で固まった巨人の捕手陣からはみ出した。他の選手が正規の移籍ルートで近鉄入りしたのと違い、解雇された後元上司の千葉に転がり込んだのだった。巨人での実績はゼロに近く、それだけに必死。当時の人気漫才コンビ秋田Aスケ・Bスケの一人に風貌が似ていたので、"Bちゃん"の愛称がついた。これが、幸いした。元巨人勢は高慢なエリートという先入観を払うのに、親しみやすい外見が武器になった。リードと捕球には自信がないと言い、まず打撃での出場をつかんだ。打撃で貢献するようになると、苦手のリードでも「首を振る前に、一度だけ私のサイン通りに投げてください」と投手陣に注文出来るようになった。「巨人では・・・」と、大リーグ方式を導入した巨人のやり方を押しつける実績も無く、近鉄ナインから直ぐに仲間扱いをしてもらった。"ハクさん"こと内藤も、巨人ブランドを振りかざす事はなかった。千葉はチームプレーの推進役に期待したが、残念ながら力は落ち気味だった。見事だったのは、身構える旧勢力への気配りだった。元巨人勢がカード遊びや麻雀でも「巨人では・・・」を口にするのをたしなめた。ドラフト制度がなかった時代。"名門"巨人のユニホームを着ただけで、胸をそらす若者が多かった。パ・リーグのお荷物球団の近鉄への移籍で、やる気をなくす選手も居た。それを放置していたら、チーム内は収拾がつかない混乱に陥る所だった。それにしても、元巨人勢は揃って奮わなかった。大友は1953年のセ最多勝防御率1位のタイトルを獲ってMVP。1959年に1年のブランクがあったから、本物のプロの鍛錬と配球を身をもって示す役目を背負っての入団だった。だから不振もやむを得ない。十時や加倉井が精彩を欠いたのは、この移籍に都落ちの悲哀を感じたからか。後者は故障もあったが、その時の心の張りと勢いをすっかりなくしていた(困)この当時から巨人は、優秀なアマ選手を精力的に集め、余剰戦力を他球団へトレードするという、経営的に上手い戦略をとっていた。知名度の高い巨人勢をありがたがる、受け入れ球団側にも問題はあった。受け入れた選手に他選手の危機感を煽るほどの力が、あれば良い。だがその多くは、伸びる余地がないか、ピークを過ぎた選手。奮わぬ選手と同時に千葉一族のコーチにも問題は在った(落ち込み)平井は実績十分で近鉄に欠けていた"組織的な攻守"を教えるのにうってつけのコーチだった。全く悪気はないが少々口が悪いのと、口癖の「巨人では・・・」が選手の反感を買った。関西のマスコミが、その平井と選手の離反を煽るような取り上げ方をした。陽気な平井の口数が、次第に少なくなったのは、気の毒だった。新田は、小鶴誠を世に送り出しただけに注目された。「ゴルフスイング理論」だけど「アッパースイングと誤解してはいけない」と懇切丁寧に話した。腰の回転理論は、投手にも通じるので、投手陣にも伝授したが、新聞社は「変わったネタ」に飛びついたが、部屋での講義に選手は着いて行けない様子だった。1961年限りで千葉が退陣すると、当然の様に元巨人勢は、近鉄のユニフォームを脱いだ。12人の退団者の内、千葉を含めて9人までが元巨人。チームに残ったのは、竹下と岩下だけだった!
 1962年球団は新監督を別当薫(<現役時代>大阪―毎日<監督>毎日・大毎―近鉄―大洋―広島―大洋)に依頼した。ここで愛称もバファローズを複数形にし、"近鉄バファローズ"(もっとも正しくは、バファローは「単複同形」で複数形でもバファローなはずだが・爆)が、誕生する事になる!抜本的なチーム改革に着手した別当は、負け癖を払拭する為、ショック療法を敢行。それが思い切った若返り策であり、四番に入団2年目の土井、投手では入団4年目で、前年の61年は50試合に投げながら勝ち星が無い久保を抜擢。これにはチーム内外からも疑問視する声が上がったが、両者が期待に応える働きを見せた事(特に久保は28勝で最多勝)(拍手)そしてこの別当采配に闘志を燃やした選手が少なくなかった事で、順位は同じ最下位でも、その内容は全く違うものとなる別当はさらに攻撃力アップにも着手し、体格の恵まれた若手を積極起用する事で大型化を図った。結果、ブルームが球団史上初の首位打者に輝いた事を筆頭に、刺激を受けたベテランの関根、小玉も好調で、土井を含めた4人を中心にした打撃陣は"ピストル打線"と呼ばれるようになる。のちに看板となる「いてまえ打線」よりは小粒だが、つながりのあるこの布陣は、1963年から2年連続でリーグ2位のチーム打率を記録した(OK)別当改革2年目の1963年は、期待に違わぬシーズンとなる。7月22日の日生での南海戦では、観客が入り切れなくなるなど、"近鉄旋風"がリーグを盛り上げた。球宴には7人も選出され、8月からは東映とし烈な3位争いを展開。最後の西鉄(この年の優勝チーム)との4連戦に連敗し力尽きたものの、大健闘と言っていい戦いぶりだった。ブルームがリーグ史上2人目の2年連続首位打者を獲得(拍手)8月にはミケンズが、南海戦で史上初の1球勝利投手となるなど、助っ人勢も話題を呼んだ。だが、"良い時期が長続きしない"のも近鉄の伝統ではある。翌年4人の10勝投手を出しながら抜けた存在がおらず最下位に逆戻りすると、またしても"地下鉄"が復活。1965年は岩本義行(<現役時代>南海軍―大陽―松竹・大洋・大洋松竹―東映<監督>東映近鉄)コーチが、監督に昇格するが、例によってチームは無気力という"持病"を発症してしまった(困)1965年のオフの第1回ドラフト会議で育英高校鈴木啓示を2位指名。のちの大エースは、1年目から10勝を挙げ、素質の高さを遺憾なく見せつけたが、その啓示がチーム最多勝では最下位も当然。岩本政権は、僅か2年で終わる・・・
 1966年に近鉄は、新外国人選手・カール・ボレス近鉄西鉄)と大洋からクレス(マイク・クレスニック)[大洋―近鉄阪神]を加え、打線強化を図った。これまでは長打力・確実性を欠いた助っ人が多かったが、今度は一発のある本物の大砲だった。問題はクレスが、三塁しか守れない事だった(落ち込み)止むなく不動のサードで主砲の小玉が、二塁へ転向した。三塁一筋でやって来た小玉が、31歳になるシーズンでの転向である。小玉は守備の不安から打撃を狂わせた。前年まで4年連続打率3割をマークしたが、この年は自己最低の.245に終わった・・・巻き返しを計ろうとした小玉に1966年の暮れ、思いがけず監督の大役が巡って来た。かつて指揮官として小玉をレギュラーに抜擢した芥田が、球団社長に就任していたが、彼の意向である。選手兼任の厳しさを覚悟の上で、トライする事にした。近鉄は三代続けて"外様の大物監督"にチームを委ねて来た。やっと自前で育てたスター(生え抜き)を監督に押し上げたのだ。あとから伝わった事だが、この時球団は、"三原脩待ち"をしていたそうだ(汗)大洋監督の三原は、この年が契約最終年。大洋側にも三原にも契約更新の意思が無い事が、早い時期から知れ渡っていた。球団は相変わらず、客を呼べる大物監督に執着し、小玉は1年のショートリリーフで起用されたのだった(困)金銭面で手当てをすれば済む、という問題ではなかったが・・・それはともかくとして三塁へ戻った小玉兼任監督は、頑張った(力こぶ)5月14日には5連勝で首位に立った。高松で5連勝を達成し次の遠征地東京へ飛ぶと、大勢の報道陣が待ち受けていた。"パ・リーグのお荷物"といわれたチームが首位に立つのは、皆既日食に出くわすほど希少価値があった。小玉と主力選手は、東京タワーをバックにVサインのポーズをして、カメラの放列を受けた。だが同月16日ぼ東京戦で敗れ、"2日天下"に終わった。以後はずるずると後退、結局最下位だった(困)だが前年の最下位より11勝多く、勝率も8分5厘上回ったのが、小玉の密かな誇りだった(OK)兼任監督は気苦労が多かった。守っていても、ブルペンの様子が気になった。逃げ切り態勢に入った時などは、自分の拙守で試合がもつれてはいけないと、消極的な姿勢になった。代打起用では打率が低くても、小玉の目を見て起用を訴える選手を選んだ。残念ながら、そのタイプの選手は少なかった・・・三原との交代が決まると、自ら求めた格好で退団(困)藤本定義監督の求めに応じて阪神入りした。一兵卒として謙虚にやり直そうとしたが、二塁転向と兼任監督の気苦労で失った技術と体力は、戻らなかった・・・と小玉評については、『近鉄球団かく戦えり』の著者・浜田昭八は、彼を擁護するような記述の仕方をしている(笑)一方ベースボール・マガジン社の『さらば大阪近鉄バファローズ』では、"1967年は生え抜きの小玉にプレーイング・マネージャーを任せたが、結果的にはこれは大失敗。甘えの構造がより強まり、さらには当時球界に蔓延しつつあった"黒い交際"も囁かれるなど、創立以来最悪の"暗黒の時代"を過ごした"と小玉に対する「辛辣な意見」が、述べられている・・・
 次回に続く。
 参考文献は、前回と同じ。