GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

やっと広島続きが、止まった

 というのは、まぁ"照れ隠し"というか何というか・・・実は彼が、登場した時や近鉄最多勝最多奪三振王を獲りまくってた時は、"「ピッチングフォーム」はよく真似してました"けど、実際に藤井寺・日生・大阪(この時は、かつての主・南海の後継者・ダイエー主催ではなく、近鉄主催での試合でしたが)・西宮(近鉄が、ビジターとして)球場で生で彼の「投球フォーム」を観た事は、無かったんですよね~(涙)だからあんまり熱弁出来ないんですよ~(困)今年の野球殿堂入りの表彰者が、発表されました(大笑)野茂英雄近鉄―米―ベネズエラ―米)氏・佐々木主浩(大洋・横浜―米―横浜)氏・秋山幸二(現役時代は、西武―ダイエーソフトバンク監督・です!!!!!皆さん今回の受賞、本当におめでとうございます(クラッカー)去年までは、図ったかの様にプレーヤー(選手)部門で"広島OB"が、多かったですからねぇ(汗)野茂氏は、言うに及ばず1990年に近鉄に入団し、初登板・初勝利は挙げられなかったものの、ルーキーイヤーから最多奪三振王・最多勝・新人王など数多くのタイトルを獲っただけでなく、「近鉄のエース」どころか"パ・リーグのエース"となって行く!さらにその特徴のある投球フォームは、「社会現象」並に真似をする野球好きの大人・子どもが、出現しましたなぁ(笑)"野茂の投球フォームを真似してる人を見ない日は、無かった"っていうぐらいやったもんなぁ(ウインク)ただその投球フォームは、仰木さんの発案で「公募」で"トルネード投法"に決まりましたが、そもそも近鉄入団の条件が、"投球フォームは、絶対に変更しない"・"キャンプやシーズン中の登板での調整方法も、独自の方法でやらせてもらう"というものであったらしいですぞ!ただそれらを貫けたのも、1992年の仰木政権時まで(ダメ)1993年に「草魂」鈴木啓示監督政権時には、全く逆の「管理野球」・「根性野球」に様変わりしてから、様子がおかしくなりました・・・"冬場でのスパイク履きのランニング"・"グラウンドでの石コロ拾いからの練習スタート"・"自身の母校でもある育英高校の野球を見習え(←プロが高校野球から、何を学べというのか!?)"・"投げ込め・走り込め"の「スパルタ野球」は、"時代に逆行する野球"に猛牛軍団が、崩壊し始めたのは、間違いなかったですな(困)着いて行ったのは、佐野慈紀(重樹)[近鉄―中日―米―メキシコ―オリックス]・中村紀ぐらいか?・・・特に野茂・吉井理人の啓示監督への反発は、凄まじかったらしいですなぁ(涙)話を戻すと、1993年こそ最多勝を獲得したものの、防御率は悪化(落ち込み)さらに2人の亀裂の象徴が、開幕投手の"野茂は何イニングになっても、代えない・野茂と心中する!"と公言してたくせに、1994年の西武球場での開幕戦は、8回までノーノーを演じるも先頭打者のライバル・清原和博二塁打を打たれて、「確実に勝ちたい」・「西武みたいに手堅い野球を目指していた」草魂監督は野茂に交代を命じ、急遽守護神・赤堀元之を登板させた上に、伊東勤の逆転サヨナラ満塁ホームランにより、近鉄はこの試合を敗退!チームと野茂は、大打撃を喰らいましたな(涙)さらに啓示監督が「練習が足らんからや!」と酷評してた野茂が、夏場にケガで故障離脱・・・「あの監督では、野球がしたくない」と思う選手も続出しましたが、野茂氏がその第一人者でしたな・・・野茂氏は近鉄自体に愛着は今でもあるんですが、開幕戦に車で藤井寺球場に乗り込んだ彼は、駐車場で「今日は本社(近鉄)の人間が来るから、お前ら選手の車は他所で停めてくれ」と言われた様に"近鉄は選手を大事にしない球団"で有名なんは、貧乏というのもありますがスター選手を放出する・馴染まない所もありましたな・・・小玉明利(<現役時代>近鉄阪神<監督>近鉄)・野茂・石井浩郎・球団が存続してても、行く行くはノリもそうなってたと思う・・・"阪神淡路大震災が、無ければメジャーに行ってなかった"と証言(『近鉄球団かく戦えり』参照)しておりますが、近鉄の「任意引退選手扱い」でマッシー・村上以来の渡米!メジャーでの活躍は、皆さんもご存知の様に(OK)メジャーでも、新人王!!ア・ナ両リーグでのノーヒットノーランを達成は、快記録!!!さらに自らホームランを放った事も!道無き道を切り開いた「日本人メジャーリーガーの先駆者」・「パイオニア」は、日米通算では、試462 201勝155敗1S。日本のみでは、試139 78勝46敗1S 防3.15です。
 佐々木氏は、野茂氏と同じ1990年に大洋に入団し、「即戦力投手」という触れ込みも入団後数年は"「先発投手」としては、全くものにならず"、「守護神」として活路を見出しました(OK)1992年に最多セーブの21Sを挙げ、前年に犯罪で球団を解雇された中山裕章の穴を埋めました。そのスピードのあるストレートと"ストレートと全く同じ軌道で落ちて行く"・"消える"と言われた「魔球」フォークで無敵の守護神は、「ハマの大魔神」という"異名"・"あだ名"が、付きました!!1993年には球団名が、大洋から横浜になったというのもあったというのは、余計に横浜の選手が「ハマの○○」と呼ばれるようになる所以でしたが・・・1998年には、輝かしい当時日本記録の45Sで、日本一に貢献(拍手)1999年は、翌年の疲労や故障により不振(落ち込み)FAで渡米。1年目はやはり落ちる球があるのは有利か、メジャーでも「DAIMAJIN」として君臨!!"ええ投手はどこへ行っても通用する"というのもあり、メジャ-でも中々の活躍をするっ。しかし日本球界・横浜に復帰した2004年時には、もう往年の力は無く、"給料泥棒に近い"存在になってましたなぁ(涙)日米通算成績は、試667 50勝54敗381S。日本のみでは、試439 43勝38敗252S 防2.41です。
 秋山氏は、高校時代は"体操部と掛け持ち"ばりの「抜群の身体能力」の持ち主(ウインク)実際、大学受験も"野球か?体操か?"で迷ってたぐらいやそうですから(ドクロ)しかし根本陸夫に口説き落とされ、西武へ入団を決意!ただし高校時代は、投手!さらに熊本県では、伊東勤のライバルでした・・・アメリカなどで英才教育を受けた彼は、「走・守・パワー選手」として順調に成長し三塁手として定着!石毛宏典の故障負担軽減の為に、1987年にはサードから外野手にコンバートされるも、これは大成功コンバート!!秋山氏は、「走るホームランバッター」・「スラッガー」として名を馳せ、当時"日本では、メジャーに一番近い男"と呼ばれましたね(笑)さらに盟友清原とオレステス・デストラーデとの「クリーンアップトリオ」は、「AKD砲」と呼ばれ、"パ・リーグの脅威な存在"でしたなぁ(落ち込み)1990~92年まで西武の3年連続日本一に秋山氏も大きく貢献(クラッカー)しかしその中で秋山氏が、一番地味で「昼行燈」と称する作家も居ましたし、対して大スター・清原は「岸和田の番長」と称されていましたし、1993年オフには球団が、昼行燈をとるか番長をとるかを迫られる状況になりましたが、やはり西武は昼行燈をとりましたか・・・"ダイエー主導のトレード"やったと言われた「大トレード」で故郷・九州のダイエーに移籍!!<下線>「優勝請負人」・「キャプテンシー」を期待されるも、中々チームも広い福岡ドームの為か秋山自身の成績も、西武時代には及ばず(困)ただ!数字だけでは計り知れんのがこの世界で、1999年にようやくダイエーは日本一を達成し、日シリでも"忍者プレーによる(フライキャッチ)"で日本シリーズのMVPにも輝く!2000年には、三振は多いながらも2000本安打を達成(拍手)2005年からソフトバンク二軍監督に就任し、ヘッドコーチなどを経て、2009年には一軍監督に就任。2010年はリーグ優勝も、日シリには進めず(困)2011年には、リーグ優勝・日本一も達成しています!通算成績は、試2189 率.270 437本1312点 安2157 でした。
 特別表彰は、相田暢一氏というかたです。元早大野球部監督やったらしいです。戦中・戦後の野球界を裏方として支えました。戦局悪化による野球弾圧が厳しくなった1943年にバット300本・ボール300ダースを買い集めました。相田氏は翌年出征しましたが、野球用具は後輩達の手で守られました。それが"戦後の早い時期の野球復興に大きく繋がりました"!!開催に尽力した1943年10月の「最後の早慶戦」、学生監督として成し遂げた1946年の秋のリーグ優勝には、どちらの集合写真にも彼の姿は写っていない。「裏方に徹した人物」であったらしいです(すいません)