GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

宣伝のつもりはないけど

 拙ブログは他と差別化を図る・既に皆さんがご存知のような情報は書かん・絶賛されてる評価や思い出しか聞こえて来ないので、ここでは違った視点で書こうかと思います(汗)川上哲治氏が、亡くなりましたが、言うまでもなく異名・愛称・あだ名だらけで書けばキリが、無いんですが・・・現役時代は、戦前の東京巨人時代から功打者として活躍し、応召され軍隊として参戦する為、一時期プロ野球を離れる・・・終戦しプロ野球も再開するが、"戦後の不安定な時代"を苦慮し、再度巨人から復帰の声が掛かるも、入団を断り続け「農業」に勤しむが、球団関係者の熱意にほだされ巨人に復帰(ドクロ)もちろん功・強打者として再び輝き、「青バット」の大下弘と共に「戦後間もなくの2大スター」であり川上氏の方は、「赤バット」と称され、「ボールが止まって見える」などと"仰天の域に達する打撃"を披露するので、「打撃の神様」の異名も(落ち込み)まだ現役バリバリの頃は、「弾丸ライナー」と称される打球は、低い弾道で速い打球を放った!"弾丸ライナー"という言葉が生まれたのは、川上氏が起源であった。プロ野球史上初の"通算2000本安打"を達成したのも彼で、晩年には今度はイチローばりの"野手の居ない所に打つ極意をマスター"し弾丸ライナーから「テキサスのテツ」と呼ばれるようになる(ウインク)曰く「安打を打つ事はそう難しい事ではない、ヒットなんていつでも簡単に打てる、野手の居ない所に打てば良いだけなんだから[笑]」←それが出来れば苦労はしないし、それが「難しい事」やのに(少怒)また"「(一塁)守備」にはあまり関心が無く、守備範囲が狭く、捕り易い送球しか捕球しなかった"という話も(困)まだ活躍出来る能力があったものの、1958年に長島茂雄が入団すると、4番を明け渡し同年オフに"余力を持って"現役引退する・・・戦時中に職業野球は、「野球用語の日本語化」も政策として打ち出したのと同時に、"野球規則"も変更を余儀なくされました(困)"走者が三塁に居て打者が外野フライを打ち、これにより得点(今の犠飛)した場合でも、打者には打数がつく。軍人が自己犠牲で戦地で死んでるのに、たかがプロ野球犠飛などをつけるのは、おこがましい(犠飛が復活したのは、1954年)"(怒)つまり<川上氏は、随分"犠飛"を損している!つまり今なら犠飛となる所を、"「打数」で計算されてしまっているという事"ですな(困)実際の川上氏の犠飛は58ですが、この数字はそのままですが、打数として加算しないで計算すると、通算打率が、".316"となり、3厘損している事になりますね(涙)通算打率でも、この計算法なら、レロン・リー若松勉張本勲に次いで第4位となるはずやったんですよね!!その点では、"生まれた時代が、不運でした"な(落ち込み)なお、"2000本安打以上打って、投手としても勝利を挙げている"のは、石井琢朗と川上氏だけでした!!
 先に挙げた"現役時代の守備に対する思考やワガママ"から、監督になるという話があった時には、現役時をよく知る者から「あんなワガママな人が、監督という職が務まるはずがない!選手を厳しく管理出来るんか!?」といった意見を占めたようですが(落ち込み)1960年はOB球団の巨人の監督代行で、1961年に正式に監督に就任!1年目から日本一に輝くも、1962・64年は優勝を果たせず(汗)悩んだ末にヒントを得たのは、キャンプ地・アメリカでの「ドジャース戦法」を吸収する事(大笑)当時"メジャーで戦力もそうでもなかったドジャースが、何故毎年の様に強豪チームとして君臨しているのか"の「ノウハウ」を学び、日本に持ち帰った!のと"勝つ為には手段を選ばず、生え抜き主義の強かった巨人内部の聖域にもメスを入れ、外様ながらも「能力主義」"を打ち出し、デイリースポーツの書評内で「頭脳(理論的)守備論」をよく展開していた名古屋・中日OBの牧野茂をヘッドコーチとして招聘する!!これが見事に結実し、「ドジャース戦法」と「牧野茂参謀」による強い組織による"管理野球"は、1965年から"空前絶後"の「9連覇」を成し遂げ、1974年は3位に終わり、監督を勇退・・・"今では当たり前の「バントシフト」などもドジャース戦法の中に入っていた"らしいです・・・また「オレ竜」にも似てますが、"極端な「報道規制」・ケガの情報など「余計な情報」を外部に漏らさない徹底した「情報管理」"の川上流は、「哲のカーテン」とも呼ばれましたね(汗)ノムさんも、常々"「V9時代の巨人の野球が、野球の理想像」・「ドジャース戦法」が、理想の野球"と言ってはばからないですし、"「川上哲治(の管理野球)」が、監督としての理想像・「手本にする存在」"とおっしゃってますね・・・最終的な監督の理想像は、"選手が自ら考える野球をする、自主的に動かす監督"が監督の最終目標・理想やから!一見管理野球と正反対の意見ですが、"自主的に動かすには、それを管理する「方法論」も必要"という事ですな(笑)川上氏は、"それを実践出来てたのではないか!"と・・・さらに川上氏のキャンプでのミーティングは、"野球の話は殆どぜず、「人生とは?」・「人間とは?」・「孔子論語」などといったおおよそ野球とは関係の無い「哲学的な話」"をしていたようで、なるほど"強いチームである秘訣"は、「実はそこが大事なんや!」とノムさんも思ったようですね(ウインク)だからヤクルト・阪神楽天時代も先ずそこから入り、次に配球、そして力が付いて来たら、また哲学的な話をするという様な「段階」を踏んでいたようですな(笑)といった具合にノムさんは、かなり川上監督を意識して、監督をしていたようですな!
 ここまでは賞讃の話ですが、ここからは僕なりの辛口というか裏の話(ウインク)先ずドジャース戦法がかなり凄いのは解りますが、それは"ある程度選手が優秀やから、成功した訳"であるって事っすよ(汗)戦術としては素晴らしかったですが、やはり"V9時代の巨人は、選手に恵まれすぎてたっていうのも在ったし、充実してたから出来た"んやと思いますよ(×)もちろん"川上哲治でなければ、ここまで連覇出来なかった"とは思いますが、あの陣容なら「9年間に何回かは、優勝や日本一になれてた」と思いますよ・・・"圧倒的強さ"や"史上最も手が付けられなかったチーム"は、手前味噌ながら「1970年代後半の阪急」の方が、上やったんやないか!?と・・・「1980年代後半~1990年代前半の西武」もV9巨人に匹敵しますが、ここも選手に恵まれすぎやったような(困)あと川上氏で外せんのが、「湯口事件」ですね(困)1970年のドラフト1位で巨人に入団した湯口敏彦(巨人)投手が、1972年オフの「ファン感謝デーでの紅白戦」で大炎上した投球内容に腹を立てた川上氏は、試合終了後に湯口氏を叱り飛ばしました!以前からうつ病で入院していた湯口氏だが、二軍監督の中尾碩志からも激しく叱責された。さらにこの夜湯口氏は寮に戻らなかった。これに対し中尾氏は湯口氏を拳で殴り、湯口氏はうつ病を悪化させた。11月27日の納会では誰が話し掛けても無言で、視点も定まらなかった。11月28日チームドクターからうつ病と診断され、11月29日には、都内の病院に緊急入院をする。うつ病の発作に回復の兆しが見え始めたが、マスコミの追及を恐れた球団側の意向により、2月15日には多摩川グラウンドに復帰、2月19日から宮崎市で行われた春季キャンプに参加した。ところが、初日に同室の淡口憲治が話し掛けても反応しない、また真夜中に奇声を発する等の異常に気づき、事態を重く見た監督らは翌日2月20日、湯口氏をキャンプから脱退させ、強制送還し、緊急入院させられた。しかし3月22日夕刻、湯口氏は病院のベッドで変死体となって発見された。球団・病院は「湯口敏彦投手の死因は心臓麻痺である」と発表したが、湯口氏の死因を巡ってマスコミから「湯口は自殺し、その原因は球団にあるのではないか」と非難される事となる。それどころか、湯口氏の死に際してのコメントも弔意を全く表すものではなく、逆に「被害者は湯口に注いできた金を無駄にした巨人軍ですよ?せめてもの救いは女性を隣りに乗せての交通事故死とかでなかった事ですかね。」というものでもあったようですし、許されるべき事ではありません(激怒)し、非常に「イメージが悪い話」も川上氏には在るんで、僕は手放しで賞讃出来ませんね(ダメ)皮肉調で言うと、「川さん・テツさんは、老衰という良い死に方をしましたね」と言いますね。
 通算成績は、試39 11勝9敗 防2.61/試1979率.313 181本1319点 安2351/試1866 1066勝739敗61分 率.591(代行監督時代の成績は、除いたもの)です。合掌です。
 参考文献:近藤唯之 著『プロ野球通になれる本 好プレー・珍プレーに見る人間ドラマ』