GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

阪急ブレーブス回顧(身売り後①)

 ここから先は、オリックス・ブレーブスオリックス・ブルーウェーブオリックス・バファローズの話になりますが、あくまでこのシリーズの趣旨は阪急ブレーブスの回顧なんで、駆け足に書きますね(汗)悪しからず、ご了承下さいませ(すいません)と言って、長くなりそうですな(爆)
 1989年にオリエント・リースは、オリックスと社名を変え、本拠地球場そのまま(たまーにグリーンスタジアム神戸を使用していたが[汗])・ブレーブスという愛称もそのまま継続(さすがにユニフォームのデザインや色は変更!)に、球団名を"オリックス・ブレーブスとして"心機一転、スタートした。1年目から優勝争いに加わり、今度は前年近鉄の優勝を阻んだロッテが、オリックスの優勝を阻み、近鉄の優勝をアシストし、最終的には2位に終わる(汗)右投手・酒井勉(オリックス)が、新人王を獲得。特に打線が活発で、前述の通り南海から門田博光を獲得し、打線に厚みが増した(大笑)門田・ブーマー・石嶺・藤井と続く打線(のちの1991年に"デカ"こと高橋智も加わりその時代も含めて)はパ・リーグ1で、「ブルーサンダー打線」と呼ばれた(鐘鳴らし)なお、1990年には、代打の切り札や時々スタメンのパンチ(佐藤和弘パンチ佐藤)[オリックス]も入団し、パ・リーグにスポットライトが殆ど当たっていない時代に、試合後のヒーローインタビューで"独特の言い回し"や"ユーモアの効いた受け答え"や"茶目っ気のある"明るくひょうきんなキャラクターで人気を博し、佐藤和やオリックスは全国のマスコミからやや注目を浴びるようになる(ウインク)ただ攻撃偏重になったのか、ディフェンス面が心許なく、2年連続の2位に留まる(落ち込み)そこで翌年(1991年)から土井正三監督によるディフェンスを中心とした"手堅い・巨人に近い野球"に転じる(汗)土井監督の詳細な説明は、拙ブログの2009年9/26の記事を参照してください・・・監督だけでなく、西宮球場ブレーブスという愛称は変更しないという確約があったが、2年でそれらを反故し、愛称をブルーウェーブ、本拠地をグリーンスタジアム神戸(現:ほっともっとフィールド・神戸)へ移転させた(涙)(大笑)[野球ファンとしては、悲しさ半分・嬉しさ半分やな、要は複雑<汗>]阪急色を払拭したいという機運が露骨に出るようになる。一応、在任3年間全て3位とAクラスは維持したものの、優勝争いに加わる事が出来ずに退陣。上田最終年の1990年から台頭して来たが、捕手に超強肩の中嶋聡が起用されたように、守りを前面にした起用が、見受けられる!外野には本西厚博・柴原実・高橋智(←どこが守備ええんや[ウインク]?、まぁ彼を外したら、極端に打線が下降するからやろうけど・爆)、遊撃には小川博文勝呂壽統といった具合に・・・ただ鈴木一朗イチロー)は、足・守備が良いながらもあまり使われなかったのは、言わない約束(爆)1990年オフには、上田監督と共に門田もオリックスを去ってるし、1991年オフには、ブーマーもダイエーに移籍した。明らかに打撃よりも守備中心となっている(汗)他にはタイゲイニー(本名:テルマンチ・ゲイニー)[オリックス]が、それなりの成績を残した。投手では、星野・山沖・酒井・佐藤義に加え、ガイ・ホフマンオリックス)・横浜時代以外は活躍した伊藤敦規(阪急・オリックス―横浜―阪神)・メジャーでも抜群のコントロールや頭脳投球で活躍した長谷川滋利オリックス―米)らが、奮闘した。他にもドン・シュルジーオリックス)が、投手でありながら、野手を使い切って交代野手が居なくなった為、延長戦でそのまま打席に立ち、勝ち越しホームランを放ったという快・珍記録も生まれました(ウインク)
 1993年オフにオリックスは、土井監督に対して契約延長をせずに、1989年に近鉄をリーグ優勝に導き、その後も監督在任中は常にAクラスを堅持していたが1992年オフに退団しており、野球解説者をしていた仰木彬を新監督として招聘する(大笑)就任1年目の1994年は、先ずはチーム内の把握から取り掛かり、選手の振り分け・見極めをしたのと同時に阪急時代から続く、人気も実力も標準的なチームを工夫でテコ入れした。先ず人気獲得には、いくら天才興行師でも便乗商法(ウインク)阪神から戦力外通告を受けていた、岡田彰布を入団させる!特に藤井寺球場グリーンスタジアム神戸といった関西の球場や西日本では、人気の彼を"代打の切り札"として起用した!!また関東の球場などでは、全国的知名度を誇る佐藤和(パンチ)を代打の切り札として、球場から歓声を浴びるようなチームに変貌させた!!そして何と言っても、監督就任と同時にその才能を見出しヒットさせたのは、イチローだろう(燃)「変則こそ個性!」・「それで打ててるんだから、良いじゃないか」と言わんばかりに、イチロー独特の「振り子打法」を一切否定せず認め、オープン戦から1番打者として起用した(大笑)シーズンに入っても、ずーっと起用された(拍手)僕もこの年のオープン戦でたまたまオリックスの試合をチラッと観た時に、"イチロー"という変わった登録名の選手が居るなぁ と思っていたら、まさかこの年にとんでもない記録を残す選手になろうとは、思いもしませんでした(汗)で、その選手は、1番打者という事もあり、7月頃でも打率が4割台に居た事もある(驚)そして前人未踏の年間(1シーズン)200安打を記録(最終的には、210安打まで達した!!!)した(炎)チームも元々投手はある程度良かった事もあり、近鉄と同率の2位!仰木監督も選手の能力も把握出来た、「さぁ翌年!」という感じで、翌年を迎えた・・・が、周知の通り本拠地とする神戸を中心に阪神・淡路大震災が、起こった。選手の中には被災した者も居て、オリックスはパニック状態になった。しかし仰木やオリックスの球団関係者は「こういう時だからこそ野球をしなけらばならない、我々が出来るのは野球だけだから」・「野球で人々に勇気を与え、元気付けよう!」と例年通り2月1日のキャンプインとなった!球場の復旧作業も何とか間に合い、3月のオープン戦初戦に球場は、幸か不幸かたくさんの客が、詰め掛けた。ただ4月下旬までは、イマイチチーム状態が上がらず、低迷していた。イチローも新打順・2番にあまり適応出来ず、2割8分台をウロウロしていた(汗}そこで仰木は、固定観念に捉われず、相手投手との相性で打順を決めるようにして行った。小川や"小技の利く2番打者"タイプの松山秀明(オリックス)を伊良部秀輝(当時:ロッテ)を得意としてるから敢えて、4番として起用したりだとか、4番でスタメンの藤井康雄を投手交代で清川栄治(広島―近鉄―広島)[当時:近鉄・左サイドスロー投手]が登板して来たと見るや、全く合わないというデータから、右打者の代打を送ったりと"勝つ為"には、自己犠牲精神を植え付けたり、固定観念に捉われない采配を振るった(拍手)その為絶対的な選手は野手ではイチローぐらいで、別段ホームラン打者が多いチーム戦力ではない状況であるから「年間100通り」以上のスタメンオーダー表が、スコアボードに掲げられた!!その為当時のオリックスは、"猫の目打線"と呼ばれた(鐘鳴らし)「4番打者が日替わり」・「4番に代打や代走を送る」「前日のクリーンナップや4番打者が翌日は8番や1番を打つ」・なんてのは、ザラであった(ドクロ)それは「好き好んで日替わりにしてるんやない!固定出来るもんなら固定するのが、理想!しかし現実は、理想通りには行かん!」・「西武などのチームと違って絶対的な戦力が無いなら、組み合わせで工夫するしかない!」といった信念が、あった(燃)投手も「勝利の方程式」を確立し、あまり先発投手を完投させなかった!「DHを含め10人野球」・「先発完投」を理想としながらも、その実は多数の用兵を強いる「人海戦術」を戦略として取り、用いたという訳だ(炎)またそれを実行するぐらい勝ちに徹したという事であろう。その采配は、「仰木マジック」と呼ばれた!!もっとも本人は、"マジック"と呼ばれるのが嫌いで、「マジックやなく、適材・適所と言ってくれ」と言っていたようである(ウインク)投手では星野・佐藤義に加え、1993年に阪急からのチームの顔・松永を交換要員に阪神から野田浩司阪神オリックス)を獲得したのが功を奏し、1993年には最多勝を獲得する程の大活躍をした!!その1995年には、現在でもプロ野球記録の1試合最多奪三振記録(9回で19個)を残した。その野田に加え、高橋功一(オリックス)、伊藤隆偉オリックス―巨人―台湾・金剛)、ウィリー・フレーザー(オリックス)[1996年以降]、救援陣には、<太>小林宏オリックス楽天)・野村貴仁(空生)[オリックス―巨人―米―日本ハム―台湾・誠泰]・鈴木平(ヤクルト―オリックス―中日―ダイエー)[1996年は、不振の平井に代わり守護神<炎>]らが、軸となった。また佐藤義は8月に、史上最年長の41歳でノーヒットノーラン無安打無得点試合)を記録(クラッカー)抑えの切り札には、高卒2年目の平井正史が、"怖いもの知らず"で守護神として君臨し、大車輪の活躍であった(拍手)野手陣では、イチローはもちろんの事、"鉄壁のレフト"・"世界の名脇役"田口壮、本西(彼らは、"野球史上に残る鉄壁の外野陣"と呼ばれた)、三塁線の名手・チャンスに強い打撃の馬場敏史(ダイエーオリックス―ヤクルト)、大島公一(1996年以降)トロイ・ニール、D・Jが、軸として機能した。主に控えだったのは、ベテランの福良淳一高橋智・勝呂が陣取り、捕手は味方投手の相性によって中嶋・高田誠(巨人―オリックス)・新人の三輪隆(オリックス)を使い分けた。チーム全員が"被災者の想いと共に"勝利に一丸と向かいチームは2位・ロッテに大きく差を付け、独走状態(ダッシュ)であった(笑)しかし地元・神戸であと4試合でマジック1としたが、1試合でも勝てば目の前で胴上げという所で、ロッテに4連敗を記録し足踏みをした(汗)ものの、遠征に出たビジター1試合目の西武球場でついについに!!優勝を決めた(クラッカー)地元神戸の声援も後押しも多いに受け、悲願のオリックス創設初優勝を飾ったのであった(拍手)惜しくも日本シリーズでは、イチロー封じに「アウトコース」を突かれ(実際は、インコース攻めを敵将ノムさんにマスコミを使って言われまくると、意識過剰になり封じ込められた)、百戦錬磨の野村ヤクルトにあっさりと1勝4敗で負かされたのであった(落ち込み)翌年もこのVメンバーと殆ど変わらず、連覇を果たす、それも2年越しの地元・神戸での胴上げとなった(拍手)しかも日本シリーズでは、仰木が近鉄時代の1989年に苦杯を舐めた巨人相手にあまり苦戦する事なく、4勝1敗でそれも日本一の胴上げも、地元・神戸での胴上げとなった(クラッカー)
 3連覇に向けて、1997年も夏場まで首位をひた走っていたが、急に若返りを図りすぎたのか、優勝争いの中、失速してしまう(汗)ただ連覇した時点でチームは世代交代を迫られ、過渡期という微妙な時期であった・・・その証拠にシーズンに入ってから、思い切った起用やトレードが、見られた!4月のある試合では、ルーキー3人が同時にスタメンに名を連ねた試合があった。谷佳知佐竹学オリックス楽天)・塩崎真といったメンバーだ。それだけでなく、本西を阪神へ金銭トレード・馬場・岩崎久則オリックス―ヤクルト)⇔広永益隆(南海・ダイエー―ヤクルト―オリックス)・小倉恒のトレードも行われた。難しい連係プレーの無い外野の本西なら(現に本西の居たセンターのポジションには、既に活躍してた谷がスッと入った)ともかく、連係プレーの要る内野(サード)に百戦錬磨のベテラン(馬場)を簡単に放出するのは、どうか?と当時の僕は、思ったわ(汗)ただその本西も場合によっては、サードに入る事もあったんですがね(爆)ただこのトレード、何気にのちのちに大活躍する小倉が入ってるんやけどね(爆)結果だけ見れば、非常に選択の難しいトレードやったんやなぁ・・・他には1996年に近鉄で活躍していたクリス・ドネルス(C・D)[近鉄オリックス]も獲得していて、D・Jの不振をカバーし、活躍を遂げた(近鉄はドネルスの活躍も評価していたが、タフィ・ローズと同じ左打者であり、より良い右打者の外国人・フィル・クラーク[近鉄]を獲得した事もあり、手放した)!しかし結局3連覇はならず、1997年は2位となる。同年オフにはニールと年俸で折り合いがつかず、ニールは退団(涙)1998年は、新外国人・プリアムが加入した。プリアムはレフトの守備に就きたく、その為田口を内野に回さねばならなくなった(時々プリアムは、DHに座る事もあったけど)[困]田口は元々内野手であったが送球に難があり、仰木の方針のもと外野にコンバートされ、むしろそれが成功した例であった!!しかしプリアムの加入で、内野も守らなくてはならなかったのである・・・田口は守備に神経を使いすぎたのか、打撃不振に陥った(困)プリアムはそれなりに打っていたものの、オリックス打線全体が不振を極め、頭を下げ、またニールに戻って来てもらうという始末(汗)背番号も去年まで付けてた16から99となったが、やはり殆どDHでの起用であったが、ニールは頼もしい(力こぶ)ニール加入で、オリックスは調子を取り戻す(少笑)1998年のパ・リーグは、未曽有の大混戦で日本ハムが前半戦まで首位を独走していたが、オールスター後には大失速してしまう(落ち込み)近鉄も2位でずっと日ハムの背中を追い掛けていたが、0.5ゲーム差までは迫るものの、迫ったと思ったらまた落ちて行くという展開で、中々追い越せずにいた中、西武やオリックスが下位から迫って来た(ダッシュ)残りゲーム数を一番残していたオリックスや西武が、有利な展開となった。その為西武にマジックが付いていたものの、ゲーム数ではオリックスに優勝の可能性が残っていたが、あまりに勝率が低く、各チーム優勝を狙うのが少し恥ずかしいぐらいになって行った(困)その為か選手起用もやや若手中心となり、結局優勝は2連覇の西武となり、オリックスは3位に留まった(汗)翌1999年も、レフトの守備にはプリアムが入り、試合途中に田口が内・外野を行ったり来たり、大島もセカンドとサードを行ったり来たりであった・・・その影響かチームの守備は安定せず、結果としてはパ・リーグワーストの守備率となった(困)他には、外国人選手枠を8人(野手5人・投手3人)も設け、調子の良い選手を使い放題、いくら実績のある外国人選手でも調子の悪い選手は、容赦無く登録抹消され、二軍に落とされた(ドクロ)投手では、1998年には中継ぎとして活躍したウィン(本名:エドウィン・ハタド)[オリックス]や先発投手としては、金田政彦オリックス楽天)が、台頭したが、この年も3位。翌2000年は、グリーンスタジアム神戸に内野のフィールドにまで天然芝を張り、当時日本で唯一の"内・外野総天然芝"の球場となり、メジャーの球場に近い本当に野球場というよりも"ボールパーク"と呼ぶに相応しくなった(拍手)それだけに集客の面でも、2000年のオリックスには、僕は非常に期待していた(キラキラ)チームの方は、前年の"守備位置動かしすぎ"の反省から、一転選手の守備位置を固定した(汗)外国人も殆ど見切りを付け、残留したのはニールぐらいだった・・・また最後の切り札として、4番にイチローを据えるという決断に出た(炎)ただ守備は安定したものの、このチームの長年の欠点は、長打力であった・・・主砲として期待した新外国人・オーランド・マルセド(オリックス)は、全く奮わず(怒)またシーズン途中に、ジョン・ナナリー(オリックス)を獲得するものの、パンチ力が無く2番打者タイプの助っ人であった(困)結局結果的には、イチローが故障により離脱した事もあるが、シーズン終盤には、開幕時8番を打っていたジョージ・アリアスが、5番や4番を打つという事態になった・・・アリアスは元々サードの守備が買われて入団したもので、"打撃は期待してなく、たまに打ってくれれば良いというぐらいにしか"考えていなかった(爆)起用選手もシーズン終盤には、仰木マジックとなり、お得意の?やや日替わりとなった。6月のある試合では五十嵐章人に投手をやらせ、彼は全ポジションに就いた記録を達成した(拍手)また左投手不足?から、外野手登録の嘉勢敏弘オリックス)を投手に転向させ、結果的には中継ぎ投手で結果を出せた!→嘉勢は1995年に北陽高校からオリックスへ入団していたが、入団当初は仰木の話題作りもあり、投手と野手の"二刀流"であった(ただ彼の野球人生は結果論で言えば、野手・投手共中途半端に終わってしまった[汗])・・・この年も投手の台頭が目立ち、小倉や川越英隆や戎信行(オリックス―ヤクルト―近鉄)が、出て来た。オリックスは夏場までは首位争いをしていたものの、夏場の17連戦という日程が堪え、仰木監督生活初のBクラスの4位まで転落してしまった(困)そして何と言っても衝撃的な出来事と言えば、この年のオフにイチローが、翌年からメジャー・リーグでプレーする事となり、大看板選手がオリックスを退団するという出来事だろう(汗)シーズン200安打を達成して、1995・96年の連覇にも大きく貢献した選手も、ついにチームを去る事になったのであった・・・・イチローを欠いた翌年の2001年は、仰木自ら"ボケ防止の為(ウインク)に"三塁ベースコーチに立ち、チームを鼓舞した。ユニフォームも巨人の様に首筋から真ん中を囲む2本のラインが加わる新しいデザインのユニフォームに一新された。この頃のオリックスは長打力不足と投手陣がやや不安定という欠点以外は、パ・リーグの中で一番欠点の無い球団であったが、「日替わりオーダー」は健在であった(ウインク)投手陣は、1999年から加藤伸一が加わり、加藤・小倉・戎のローテーションは、それなりだった。当初は精彩を欠いたものの具臺晟ク・デソン)[オリックス]が救援に控え、ルーキーの仰木が命名した"ジョーカー"こと大久保勝信が、シーズン途中から守護神として君臨し、新人王を獲得した。野手の補強としては、小川他2名⇔進藤達哉(大洋・横浜―オリックス)他2名のトレードや新外国人としてジョー・ビティエロ(オリックス)を獲得!野手は軒並み打率は高かったものの、チャンスに強かったのは、主に1番を打っていた塩崎(得点圏打率は、リーグ2位)ぐらいで、主軸はイマイチであった(汗)主に4番のアリアスは38本もホームランを放つも、チャンスにはめっぽう弱かった(困)ビティエロもイチローの穴埋めを期待されたものの、さすがにそれは厳しかった(涙)ビティエロは打撃は良かった(22本83打点)ものの、一塁手ながら守備は危なっかしく、とても試合で使えるような守備ではなかった(爆)その為、彼はDHでしか出場出来なかった・・・それ(DHでしか使えない事)が影響して、翌年の契約は更新されず(怒)アリアスも同様でチャンスに弱い事が災いし、阪神へ移籍・・・進藤も横浜時代に定評のあった守備で結構やらかし、2割8分ぐらい打っていた打撃も横浜時代よりは下降した(困)結局貯金4で勝ち越しはしたものの、2年連続の4位となった(落ち込み)新しい風を吹き込む為と2年連続でBクラスとなった為、仰木監督も退団となった(涙)ホーム最終戦は、奇しくもかつての教え子・近鉄戦となった為、仰木監督は両チームから胴上げされた(拍手)
 翌2002年は、両外国人野手に加えチームリーダーの田口もイチローの後を追うように、メジャーへ移籍(落ち込み)新監督に就任した石毛宏典は、かなりの戦力ダウンの中シーズンをスタートした(落ち込み)前年は投手が苦戦し野手が頑張ったものの、この年はその逆で金田、ク・デソンがそれぞれ防御率1・2位を独占も、打線が貧打に泣き、最下位に転落(困)新外国人 スコット・シェルドン(オリックス)、当時プロ野球記録だった両打席ホームランを何本か放ったフェルナンド・セギノールも特に前者は、あまり奮わなかった・・・前述した様にだから余計に当時(今も!)の僕は、「アリアスはあまりにチャンスにあれやったからしゃあないけど、ビティエロ良かったのに何で切ったんや?」とか「ビティエロ切ったからや!(怒)」と思ったものです・・・翌2003年も、オリックスは球場と選手契約にメスを入れる!!前者は、今でこそ当然の様に殆どの球場であるが、日本プロ野球で初のグランド内に観客席を設置するというフィールドシートを設け、ファンサービスの向上を図った(拍手)さらにそれだけでなく、球場名や二軍のチーム名を貸し出し(販売し)て収益を得るという命名権ネーミングライツ)を採用した(二軍の命名権は、2000年から実施している!チーム名は「サーパス神戸」)[すいません]グリーンスタジアム神戸の球場名は、Yahoo!BBスタジアム(ヤフースタジアム)といった具合に、何とか球団を黒字にしようとセ・リーグ球団には、考えられんぐらい努力した(燃)後者としては、契約金無し(¥0)の選手を多数入団させるという、ある意味正しいエコな選手契約を結んだ!!その考えの背景には、「大体まだプロで1打席も立っていない・1球も投げてない選手に何億円も払う事自体おかしな話!一般企業でも入社する時に契約金なんてございますか!?」という、思考があるのである(炎)しかーしっ!一方で「あまりに金を掛けなさすぎ!!そんな金が掛からん選手を獲ってチームを強くしようなんてやり方が露骨すぎるし、そんな夢物語など理想論にすぎない!」という考え方も出来るようで(汗)この記事をご覧の皆さんは、どちらの考えですかな(炎)?僕はプロ野球界が前者になって欲しいけど、う~んやはり後者でしょうがないかなぁという気がしないでもなく、答えは出ないですね(爆)話が逸れたが、これだけオリックスはアイデアを出したが、フロントは迷走しだす(困)先ずシーズン初めの4月下旬に、石毛監督を解任(ドクロ)打撃コーチのレオン・リー(現役時代は、ロッテ―大洋―ヤクルト)を監督に代行として就任させる!さらに6月には、突如「ヘッドコーチとして役割を果たしていない」という理由で、中尾孝義(現役時代は、中日―巨人―西武)コーチを解雇するなど、苛立ちを隠せない(困)しかしそういった荒療治も空しく、チームは1試合に26点や29点も取られるチームとなってしまった・・・石毛・レオンのヒット作は、塩谷和彦阪神オリックス―韓国・SK)や後藤光尊や守備は穴だらけであったが、ホセ・オーティズルーズベルト・ブラウンオリックス)ぐらいであった(落ち込み)もちろん、この年も最下位・・・石毛以降は、監督の短命交代やコーチの入れ替えや解雇・フロント転出は、オリックスお家芸となってしまった(落ち込み)もちろんレオンも例外なく、監督職から元の打撃コーチに戻った(汗)2003年のオフには、つい数ヶ月前まで西武の監督であった伊原春樹を新監督に迎える!!ダイエーからFA宣言選手で村松有人を獲得!谷と共にハイレベルな外野布陣を築こうとした。ただかつて"西武の頭脳"と言われた百戦錬磨の伊原でも、この弱体投手陣ではチームを立て直せなかった・・・さらに6月には、急転直下で近鉄との合併話が持ち上がり、もはや野球どころではなくなって行った(困)合併の話に至った背景には、"いくら球場の改装・命名権といった手を尽くしても一向に黒字にならない球団経営に宮内オーナーは、苛立ちを覚えていた。そこで同じ関西のパ・リーグチーム近鉄と会談の場を設けて話に及んだようである。近鉄も同年の親会社を含めた決算を公開し、本年度中に球団の処遇や在り方を宮内と相談しようと思っていた矢先に渡りに船のように球団合併の話が来たようである。宮内は「プロ野球だけはどうも上手く行かん、阪神ファンの海の中で野球をしていても面白くない。」と思い、交通の便や雨天中止のないドーム球場大阪市の人口の多さに惹かれ、大阪ドームを使用したいという思惑があったようである。近鉄にとっても、近鉄が今後20年間大阪ドームを本拠地として使用し、年間12億円の使用料を支払う事を前提に、再建策のとりまとめにとりかかった(もっとも開場当時から近鉄は年間使用料10億円を毎年払っていた訳であるが・・・)。近鉄大阪市との取り決めが有る為、オリックスとの合併の条件に合併後の新球団は大阪ドーム使用を条件とした訳で。見事に宮内の思惑と一致している事が、早急に合併に踏み切ったのかも知れないといった所だ"(汗)チームの方は、アテネ五輪本番に看板外野手の谷と村松を供出した為、若手を抜擢せざるを得なくなった!それが返って実を結んだのか、早川大輔オリックス―ロッテ―横浜)が埋め、石毛・レオン時代は不振だった塩崎が復活し、平野恵一も台頭!!ただ後藤は、期待されたものの少しダウン(ウインク)谷も五輪準決勝の試合で最後の打者として、一塁に駆け込んだ際、足を負傷(病院)帰国後は、ケガの影響か精彩を欠いた(困)投手では1年強勝ち星の無かった川越が、伊原監督に4月のある試合の降板後に試合中にも関わらず喝を入れられ、ローテーションに返り咲いた(少笑)しかし伊原をもってしても、結局3年連続の最下位に終わる(涙)本拠地Yahoo!BBスタジアム最終試合は、奇しくも合併相手球団近鉄との対戦となり、7―2でオリックスが有終の美を飾り、花を添えた(花)(涙)試合後に両チームの選手ら関係者は握手を交わし、敵将・梨田は両チームの選手から胴上げされた!!ただ両チームにとっては、悲しい胴上げであった(涙)栄華を誇った"オリックス・ブルーウェーブ"として幕を閉じ、ブルーウェーブは翌年から近鉄から拝借した"バファローズ"を名乗る事となる・・・ほんまによう名前が、変わるやっちゃなぁ(落ち込み)伊原監督も退陣(汗)統合球団の新監督には、両球団指揮経験のある仰木彬に白羽の矢が立った(驚)前年にガンを大手術したばかりの解説者に酷な話であったが、同じく解説者で教え子でもあった金村義明が煽った話が、本人もビックリの実現した格好となった!!確かにプロ野球ファン誰しもが反対・非難した「悪役球団」を好印象にするには、結果を出せ(勝つ)てなおかつファンサービスが得意な名将で、しかも両チームの特徴や伝統をよく知ってる人物は、彼以外に居なかった(燃)それを証拠に2004年の秋季キャンプは、近鉄ブルーウェーブのそれぞれ前球団に所属していたユニフォームを着た選手達が混在していたが、結束力が直ぐに高まった!ともすれば空中分解しそうな雰囲気を、ものの見事にまとめあげた。これも仰木マジックの成せる業か!?話が先行したが、新球団オリックス・バファローズは吸収合併の権利として、同じく新しく誕生した「東北楽天ゴールデンイーグルス」との間で、近鉄ブルーウェーブ所属の選手をそれぞれどのように分配させるかという「分配ドラフト(エクスパンションドラフト)」を行い、先に25名のプロテクト(保護)選手を獲得する事が出来た!つまり楽天より先に25人選手を"良いとこ獲り"出来た訳である(汗)とは言っても、近鉄は2004年5位・ブルーウェーブも6位だったから、5位・6位チームのレベルの低い奪い合いであったが(爆)オリックスの新ユニフォームは、近鉄ファンを逆撫でした様な"殆どブルーウェーブと変わっていない"ユニフォームであった(涙)この事に旧ブルーウェーブの選手からも旧近鉄の選手からも不満が漏れた・・・ただ当時の僕は「これはしょうがない」と思った(汗)言うても、オリックスは吸収合併した側なんですから!!合併球団の出資比率もオリックス8割・近鉄2割ですから、オリ側の主張が通るのは当然でしょう!!ただそれではあまりに近鉄ファンがかわいそうなので、のちの開幕前に"大阪ドーム(仕様・使)用"ユニフォームが、新たに制作された(神戸では、神戸用のユニフォーム)[汗]加えて、近鉄側のマスコットキャラクター バフィ・リード(愛称:バフィ)は廃止され、チーム名はバファローズなのに、マスコットはブルーウェーブ側の"ネッピーとリプシー"が、そのまま変更無しに継続される事となった・・・
 当時日本プロ野球史上最高齢での就任69歳(2005年のシーズン中に70歳)となった仰木は、「グラウンドで死ねたら本望!!」とはばかり「ぶっ倒れ宣言」をして、フィールドに帰って来た(すいません)しかしプロテクトされたものの、合併球団への入団に難色を示した選手も居た(落ち込み)特に近鉄の選手に多く、大村直之はFAでソフトバンクに、中村紀洋はメジャー・リーグのロサンゼルス・ドジャース傘下へ、岩隈久志楽天へ移籍した・・・看板・目玉選手に逃げられたオリックスは、ある意味旧ブルーウェーブ選手が、意外な形で中心となった(汗)そんなマイナスからの船出となった中でも、仰木劇場(マジック)は春季キャンプ早々開演(まる)近鉄のローテーション投手を担っていた両外国人投手は、ジェルミー・パウエル(近鉄オリックス―巨人―ソフトバンク)をパウエルからJ・Pにケビン・バーン近鉄オリックス―ロッテ)をバーンからケビンにそれぞれ登録名を変更した。他にもキャンプの紅白戦で1番の成績を挙げた選手にプロゴルファー横峯さくらとの合コンを企画(セッティング)したのも仰木であったし、合併球団の悪いイメージを何とか明るい話題作りで、払拭しようという努力と行動は充分に伝わって来た(すいません)もちろん"プロ野球選手は、どこでも守れて、どの打順でも打てなきゃプロじゃない!"という彼の信条から、複数ポジション制・日替わりオーダー実現の為、外野手の大西宏明に早速、サードやファーストの練習もさせた(大笑)ただ2005年のシーズン中は、彼の内野起用は実現しませんでしたが(爆)世間の冷たい視線が降り注ぐ中シーズンに突入すると、平野・塩崎・後藤・早川・阿部真宏水口栄二といった二遊間に似た様な選手が並んだ(早川は外野・爆)ものの、彼らを試合によってはサードやファーストに回し、長打力は無いものの軒並み打率の高い選手が並び、結果を出した(笑)前年にスタメンでブレイクした北川博敏は、打率は低かったものの、本塁打や打点は及第点は行った(汗)また相手投手の左・右によって打順や守備位置を組み替え、"猫の目打線"健在であった(ウインク)他には、新外国人のクリフ・ブランボーオリックス)は前半戦に活躍し、カリーム・ガルシアオリックス)は、8月に2試合連続3本塁打を記録した(大笑)投手陣は、元メジャー・リーガー吉井理人の復活、盤石な救援陣が光った(キラキラ)特に春季キャンプ前にトレードで山崎浩司上村和裕菊地原毅(広島―オリックス―広島)の獲得が大きかった!!菊地原は、71試合に登板し、大車輪の活躍(すいません)さらに加藤大輔・大久保の抑えを加え、勝利の方程式"KKO"を確立した(大笑)長野県から観た話であるが、結果を出してただけに彼らにもっとスポットを当てるべきと思った(炎)しかし健闘も惜しく、監督の体調と共にチーム状態は下降し(最後に4連敗し)、プレーオフには出場出来ず、借金8の4位でシーズンを終えた(困)結局セ・リーグでは阪神が優勝した日(9月29日)に志半ばながら、監督勇退を表明した仰木は、オリックスのシニアアドバイザーに就任した。しかし仰木シニアアドバイザーが、12月15日に亡くなったのであった(涙)プロ野球ファン・特にパ・リーグ一筋で生きて来たために、パ・リーグファンは、悲しみに暮れたのであった・・・
 2005年は4番・一塁で起用されていたものの、シーズン終盤に二軍に落ちていた巨人の清原和博獲得を狙っていたのは、仰木が最期まで気に掛けていた「清原獲りが、先ずアドバイザーとしての仕事やね」と常々言っていた証拠であった!!先ずと言ったものの、実質は"最初で最後の仕事"という自覚していた・・・その遺志通りに、仰木の死後清原は、オリックス入団を表明する!もっと早よ言ってれば、彼が生きてる間に間に合った!という気がしないでもなかったが(汗)さらに中村紀も米から帰国し、入団が決まった!この長打力抜群のダブル大砲獲得に新監督・中村勝広は、心躍ったようである(汗)その為、マスコミからもオリックス打線は注目され、開幕前には"ミックスモダン打線"と命名された。仰木前監督の弔い合戦もチームをより一層盛り立てる要因となった!しかし当時の僕はこの年からオリファンになったが、2人ともピークを過ぎてるし時代はスモール・ベースボールやから、"時代遅れの大鑑巨砲主義"と冷ややかに見ていたら、案の定借金29の5位と散々な成績であった(困)目玉の2人のケガ・不振、平野恵の大ケガ、ブランボー・ガルシアの不振が、たたった・・・おまけに前年から不振だった谷の不振・新外国人のジェイソン・グラボースキーオリックス)も全く働かず(汗)見るべき所は、新人の平野佳寿トム・デイビー(広島―オリックス)の快投ぐらいであった(落ち込み)
 中村監督は、成績不振の責任を取り、1年で退陣・・・前職のゼネラルマネージャーに戻った。監督職にメジャーから大物のテリー・コリンズを招聘する(驚)前年から守護神の大久保が不振に陥り、新しい抑えには、ランス・カーター(オリックス)が起用された。ただカーターはことごとく救援に失敗(困)し、先発に転向してからは、幾分か上手く行った(ウインク)先頭打者として期待された坂口智隆は、オープン戦の好調がウソの様にシーズンに入ると不振となり、コリンズ構想は早くも頓挫(困)代わりに座った大西も、1試合に1安打ぐらい放つも出塁率が悪く、あまり機能しなかった・・・開幕から2ヶ月はメジャー式に固執するあまり、一軍二軍の選手を頻繁に入れ替えなかったが、6月頃には日本式に合わせるようになり、チームもそこそこ上昇!下山が調子を上げ、開幕前に"史上最強の助っ人"タフィ・ローズを獲得したのが、大きかった(炎)ローズは42本もホームランを放った(大笑)ヤクルトからグレッグ・ラロッカも獲得し、ラロッカ・ローズ・北川のクリーンナップは、何やかんや言って、悪くはなかった!投手は先発は頼りなかったものの、中継ぎ陣は12球団でもトップクラスに入るぐらい安定し、香月良太岸田護本柳和也・金子千尋(最後6試合は、先発・・・)と盤石であった。抑えにはカーターに代わり当時中継ぎの一角の1人であった加藤大輔が、この頃は!比較的安定感があり、信頼は置けた!ただ前年よりチームの試合内容は良かったものの、残念ながら借金15で最下位となった(落ち込み)その為同年オフは、大幅な補強に出た・・・西武からアレックス・カブレラを獲得!トレードでは、大西⇔古木克明ラロッカ・ローズ・カブレラのクリーンナップは、コリンズ自ら"ビッグボーイズ打線"と命名し、期待を抱かせた!!ただ古木は、トレード下手なうちらしく、奮わず(汗)それだけでなく、5月下旬に突如コリンズ監督が、自ら辞任を申し出た(困)2003年の石毛以来のシーズン途中での監督交代となる(涙)チーム状況が悪かったのは、先頭打者坂口は好調だったものの、カブレラらが調子が上がらず・・・もっと裏切ってたのは、平野恵・阿部健太濱中治(おさむ)[阪神オリックス―ヤクルト]・吉野誠のトレードで加入した、濱中であった(少怒)移籍1年目の2008年こそ、満塁本塁打を含む9本と何とか許せる成績だったが、翌年以降は言うまでもなく(涙)交換相手の平野恵が、大活躍してるだけにね!まだこの年と去年から吉野が活躍してるから、ええようなもんの!!もう少しで大損やった(落ち込み)ただ急遽監督代行に就任したヘッドコーチの大石大二郎は、逆境をプラスに変えて行った(燃)北川をサードに回し、攻撃的な布陣を敷いた!そして何と言っても、若手投手が次々に台頭し、チームは快進撃を遂げた(拍手)二桁投手が、4人(小松聖・金子・山本省吾近藤一樹)も♪前述した通り、吉野・香月・加藤大らが勝利の方程式だった。8月には大石監督代行が、正式に監督へ昇格(大笑)さらに清原が復帰し、打ったヒット数は僅か4安打ながらも、チームの雰囲気を変えた所もあったのかな(ウインク)?ただ真の救世主は、小松と言ってよかったでしょう(燃)ともかくチーム全体が一丸となり、1999年以来(近鉄から遡れば、2003年以来)のAクラスで、2位となった(拍手)2位で入ったという事は、ホームでクライマックス・シリーズを戦う事が、出来たのであった(笑)ただここまで来ただけでも上出来で、CSは3位日本ハムに2連敗し、あっさり敗退した(困)次回に、続く。
 参考文献:『プロ野球データ事典』
     永谷脩 著『仰木彬 「夢実現」の方程式』(株式会社イースト・プレス・2006年)
     日本経済新聞社編『球界再編は終わらない』(日本経済新聞社・2005年)