GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

阪急ブレーブス回顧(1950年~1962年)

 けんか別れした両リーグは犬猿の仲となり、選手引き抜き以外は、冷戦状態となった(落ち込み)ただ日本シリーズやオールスターは、分裂して間もなく行われる事となった。その分裂直後の1950年に、リーグ優勝を遂げた毎日の湯浅禎夫(<現役時代>大阪毎日球団というセミプロでは、出場経験あり。加えて一応毎日でも後述での1試合で選手兼任扱いになっている<監督>毎日)は、優勝決定後、スタンドが閑古鳥鳴く状態の時、ちょうど西宮球場で相手阪急の浜崎真二監督に「どうや、明日二人で投げ合おうやないか?」と提案!何と湯浅48歳1ヶ月・浜崎48歳11ヶ月による監督・48歳同士の登板、投げ合い試合を実現させた(ドクロ)東京六大学のオールドスター戦を実現させたのであった(炎)前日1300ほどしか入らなかった観客は、一気に8000を越した(大笑)その中で投げ合った二人だが、浜崎は3回2/3で降板{汗}既に毎日打線に捕らえられていた(結局2対9で毎日の勝利)・・・湯浅も勝利投手確実なのに、4回でさっさと次投手にバトンを渡して退いた!もしこのままだったら、48歳勝利投手栄誉もあったはずであった・・・なおこの浜崎真二の登板が、日本プロ野球史上"最年長"登板記録である!!!!あの昨年で引退した工藤公康でも達成出来なかったのが、この記録だ(燃)よくよく考えたら、こんなシャレの効いた演出・試合・選手起用をしてるのは、パ・リーグやでなぁ(拍手)真面目に考えたら、冒とくとも言えますが(爆)
 選手大量引き抜きでチームの方は、投手陣からは主力の今西が去り、野手では平井(生田)三郎(正明)[阪急―西日本―巨人]・宮崎剛(<現役時代>大阪・阪神軍・大阪―*1宇高・熊谷―阪急―大洋・大洋松竹・洋松・大洋<監督>大洋*1972・74年は、代理監督)・日比野武(阪急―西日本・西鉄)・永利勇吉(阪急―西日本・西鉄)らが他球団へ移籍した・・・新人補強と野口二・中谷らベテラン頼みの陣容では、下位低迷も無理はなかった。<浜崎時代の1950~53年の順位は、4・5・5・2位。この時期の主力には、投手では阿部八郎(阪急―西鉄)・天保・柴田英治(阪急)、打撃陣では戸倉勝城<現役時代>毎日―阪急<監督>阪急―東京)・古川清蔵(名古屋軍・中部日本軍・中部日本―阪急)・伊勢川眞澄(ライオン・朝日軍・太平パシフィック・太陽―金星・大映―阪急)などが、居た。唯一Aクラスに入った1953年は、彼らの他、ルーファス・ゲインズ(阪急)、ラリー・レインズ(阪急・阪急再入団)、ジョン・ブリットン(阪急)の3外国人の活躍などで夏場に10連勝を記録、「夜の勇者旋風」(→ナイターに強かった為)を巻き起こした!
 西村正夫(<現役時代>阪急軍・阪急<監督>阪急)、先発完投主義(→当時はどの監督もほぼ全員がその考えだったであろうが[汗])・藤本定義(<現役時代>プロ野球選手として所属球団無し。<監督>東京巨人軍―太平パシフィック・太陽―金星・大映―阪急―大阪・阪神)が監督を務めた1950年代後半になると、徐々に新戦力が台頭!米田哲也(阪急―阪神近鉄)・名球界会員で唯一勝ち星が負け数を下回っていた(254勝255敗、それだけ打線の援護がなかったという事[涙])うえチーム事情で時には外野手としても出場していた梶本隆夫(<現役時代>阪急<監督>阪急)が(彼等2人は"ヨネ・カジコンビ"と呼ばれた)が、毎年の様に20勝以上を記録した他、河野旭輝・愛称「チコ」で親しまれ、その辺の関西人よりもずっと関西弁が上手く「もうかりまっか?」と話掛けるあたりは、完全に日本というよりも関西に帰化した感じであるロベルト・バルボン(阪急―近鉄)の快足コンビが、次々に盗塁を決めた(1958~60年は、盗塁王)。<下線>ちなみにバルボンは、現在もたまにオリックス・バファローズの少年野球教室などに顔を出して、健在である(笑)しかしそうした個々の活躍も、チームの総合力は結び付かず、4・5位のBクラスに甘んじる事が多かった。そんなチーム事情を反映してか、いつしか付けられたのが"灰色カラー"、暗いイメージにつきまとわれた時代であった{困った}1960年代の戸倉監督時代は、4・5・4位であったが新入団選手に目を向けてみると、一年ずつのちの主力の石井晶(阪急)・岡村浩司(浩二・幸治)[阪急―東映・日拓―日本ハム]・大石弥太郎(阪急―広島― 阪急― 中日―南海)が、入団している所を見ると、スカウトの眼力は中々のものであったと言えるかも知れない。次回に、続く。
 参考文献:『プロ野球データ事典』
       日刊スポーツクラブ『プロ野球100人 vol.3 監督その栄光と苦闘』((株)日刊スポーツ出版社 2007年)
 *1 宇高(熊谷)とは1946年(俗に1リーグ時代と呼ばれて(されて)た時代{汗})に1年だけ存在したプロ野球リーグ"国民リーグ"に所属した球団「宇高レッドソックス」である!!ただこのリーグは、人気薄により僅か1年余りで解散してしまう(ドクロ)なお宇高以外にも球団が存在したが、またの機会に説明するとしよう(ウインク)