GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

阪急ブレーブス回顧(1リーグ時代・1946年~1949年)

 1945年11月には群馬県の新川球場(1928~1987・特に本拠地とした球団は無し)・西宮などの3球場で日本野球連盟再建に向けての東西対抗戦が、行われた。そして戦前からのチームも続々と復活した。各球団に英語使用も解禁され、新しい時代に合わせてチーム名を変更した。ただ阪急軍だけは戦前の名前を踏襲して、そのまま"阪急軍となった。1リーグ・8球団で戦後初のプロ野球は、翌1946年の4月27日には早々とペナントレースを開幕した。これは日本のプロ野球史上初の長期1年1シーズン制のペナントレースであった。それまではシーズンを春と夏に分けて戦ったりしていたのだが、「これからはアメリカの時代」という事で、<下線>大リーグの形式に倣って採用され、これは現在に引き継がれている(さらに近年に渡っては、プレーオフ制度もアメリカを倣っている)。大リーグに倣えという思想は、翌年の1947年にもニックネームの採用という事でも現れた。阪急は当初「阪急ベアーズ」を球団名としたが、オープン戦で負けが続き、bearに「(株式用語で)弱気、売り方」という意味があることも判明、縁起をかつぐ意味もあって4月18日に改めて<下線>ファンからニックネームを募集して5月に"阪急ブレーブス"となった。←どこかの文献に書いてあった気もするんですが、とりあえずWiki頼み(爆)
 戦後阪急は、最も早くチームの再建に取り組んだ球団である。1946年戦後初のシーズンは、開幕から豊富な陣容で他球団を圧倒、首位を快走するが、夏場にかけて復員その他で他球団が戦力を整え始めると、徐々に追い上げられ、これに投手陣の不調も重なり、ついには首位陥落、最後は4位まで順位を落とした(困)続く1947・48年は、野口二郎・天保義夫(阪急軍・阪急)・今西錬太郎(啓介)[阪急―大洋―阪急―東映]ら投手陣の頑張りにも関わらず、貧打に泣かされ連続4位(汗)特に後者二人は、当時「巨人キラー」として名を馳せたらしい。当時監督の浜崎真二(<現役時代>阪急<監督>阪急―高橋・トンボ―国鉄)は当時既に50歳に近かったが、時に自ら登板して(後述するが、彼はとんでもない日本記録を持っている)チームに喝を入れたほか(1948年には17試合に登板、3勝3敗の記録を残している)、戦術面では得点力アップの為、盛んに盗塁を仕掛けるなど、南海に次ぐ機動力を見せた。しかし小粒の貧打線では自ずと限界があり、4位確保は上出来とも言えた。翌1949年も下馬評はBクラスであったが、蓋を開けてみると中谷準志(演男・順次)[ライオン・朝日軍・太平パシフィック―太陽・大陽―阪急―西鉄]内藤幸三(名古屋金鯱軍―朝日軍―ゴールドスター・金星―阪急―広島)・武智修阪神軍・大阪―金星―阪急―広島―近鉄)・玉越忠義(金星―阪急)の投打の補強が功を奏し、大映を抑えて2位に食い込んだ!優勝こそならなかったものの、優勝した巨人に11勝8敗と唯一勝ち越すなど、1リーグ時代の最後を飾るにふさわしい健闘を見せた。
 そんな中1949年オフに日本野球連盟は、急遽最高顧問会議を開き、近鉄近畿日本鉄道)と毎日新聞に対しては加盟の方向で検討を開始した。しかしこの顧問会議には決定権が無かったので、数日後に各球団の代表者が集まって開かれる連盟代表者会議に話題が移される事になったのである。ところが会議が開かれてみると、<色:#ff0000>意見が二分されてしまったのである。新規参入に容認派の大阪・南海・阪急・大映スターズ(現:千葉ロッテマリーンズ)・東急フライヤーズ、そして経営的に苦しんでいるので新規参入に反対派の巨人・中日・大陽ロビンス(現:横浜DeNAベイスターズ)とに分かれたのである。横暴の限りを尽くすわがままな読売新聞社と巨人の動きを何とか牽制しようと電鉄会社を中心とした勢力、一方せっかく販売拡張がうまく行きだしたのに、何もライバルの毎日新聞を入れる事はない というあくまで商売優先を貫く巨人と中日が共闘した新聞社勢力との対立構図となったのであった。ただこの内、新聞社側に立った大陽だけは、毎日新聞に球団を売却したいが為に球団増設に反対していただけの事であった。新規加盟については元々、読売のオーナー・正力松太郎が言い出したのだが、まさか読売新聞内部からの猛反発にあうとは思ってもみなかったであろう。結局この対立を解決する方法は見当たらず、日本野球連盟は対立する2つの勢力に分裂する事になってしまった。そして翌年(1950年)から現在のままのセントラル・リーグパシフィック・リーグの2つのリーグに分裂される事になったのは周知であろう。
 セ・リーグに参加したのは、3球団に加えて大阪であった。一方パ・リーグの方は、南海・阪急・東急・大映の4球団が所属した。さらに両リーグ共に4球団では少数過ぎるという経緯で、新しい球団の加盟を計画したのである。先ずセ・リーグの加盟を果たしたのが、大洋漁業西日本新聞であった。その内西日本新聞社は、本来西鉄と連合してチームを結成するつもりで自社だけで球団を持つ自信は、あまり無かった。しかし西鉄は電鉄勢力のパ・リーグに参加する事を決めてしまっていた。それならば西鉄と合併して球団を経営すれば良いのでは?という考えが出ても不思議ではないが、立場上そうは行かなかったであった。何故なら当時西日本新聞は、読売新聞と業務提携をしていたのである。東京で起こるネタの記事等は、全部読売が頼りであったのだ。読売を裏切る訳にはいかない西日本新聞は、止む無く1シーズンで姿を消す幻の球団「西日本パイレーツ」(現:埼玉西武ライオンズ)を結成させたのであった。一方パ・リーグは、毎日新聞社の"毎日オリオンズ"(現:千葉ロッテマリーンズ)と近鉄の"近鉄パールス"が正式加盟を認められ、結果単独運営での西鉄は「西鉄クリッパース」(現:埼玉西武ライオンズ)として加盟した。
 その内毎日は、大阪の選手兼任監督若林忠志(<現役時代>阪神軍・大阪―毎日<監督>阪神軍・大阪―毎日)を中心とした大阪の主力選手を引きずり込む。元々若林を中心とした大阪の選手達は、巨人のわがままぶりに相当嫌悪感を抱いていたのであった。その為元来パ・リーグに入る予定であった大阪であったが、急遽セ・リーグに加盟した為選手と球団の間に軋轢が生じる事となる。結果若林は、辞表を書いてパ・リーグの毎日に駆け込んでしまったのである。すると若林のあとを追う様にダイナマイト打線の中核・別当薫(<現役時代>阪神軍・大阪―毎日〈監督〉毎日・大毎―近鉄―大洋―広島―大洋)や呉(ご)昌征(しょうせい)[阪神軍・大阪―毎日]も毎日へ移籍する事になった。ただ当時の大阪の経営状況が苦しく、主力選手を放出せざるを得なかったという説もある。阪神側から書かれている文献を見ると、自業自得なはずやのに、毎日新聞阪神の主力選手を引き抜いたような書き方をしてある文献も見られる(少怒)いずれにしても大阪はこの事に青ざめた。しかし以前であったら、日本野球連盟に提訴するという手もあったが、既に別々の組織になっていた為、どこにも訴える場所はなかった。こうなるとセ・リーグ側も反撃に出る。パ・リーグ側では、阪急・大映・東急辺りが、選手引き抜きの猛反撃を食らう事になる。前置きが長くなったが、この選手引き抜きの経緯を書きたいが為の説明に長文となった・・・おおよそ、阪急とは関係の無い記事となってしまいましたなぁ(汗)(すいません)また西日本パイレーツの説明が中途半端に終わってるので、機会があればまた書こうと思います・・・そうしないと、どうして選手の引き抜きや現在の野球に繋がるのかが、説明出来ないので(炎)次回に、続く。
 参考文献は、前回までと同じである。