GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

阪急ブレーブス回顧(戦前編①)

 はてさて、唐突に復活した誰得・何得企画!!昨今はWikiもあり、ここに個人的に書かんでも、調べる方法はいくらでもあるんですが、僕なりの文章で、書き綴ってみたいと思います(汗)ただ参考文献があまりなく、特に強豪やった時代は、個人の回顧本を参考にしてますんで、趣旨からグググッと横道に逸れる文章になるかと思います・・・悪しからずご容赦下さいませ(すいません)
 拙ブログで何度か熱弁している様に読売新聞の陰謀により、長年メディアや文献・歴史は、"日本プロ野球で最初に創設された球団であるから、非常に伝統・歴史がある"と国民は、教育・洗脳されて来た。しかーし!!それは読売が自身の球団を英雄や美談で彩らせる為の、捏造・口実でもあった。巨人の前身「大日本東京野球倶楽部」は、"現存しているプロ野球球団で最古の球団"である事は間違い無いが、"日本で最初に創設された球団ではないのである"!!!"伝統の一戦"や"ヴィクトル・スタルヒン"の所でちらっと触れましたが、東京府(当時)芝浦の日本運動協会が、日本で初めて創設された球団である。
 関東大震災により試合をする場所を奪われた日本運動協会は解散を余儀なくされる事となった。しかしそれでも野球に対する情熱を持った人は、沢山出現した。阪急電鉄の創業者・小林一三(いちぞう)もその1人である。本題に入る前に、彼は大正初めに沿線の大阪府豊中にグラウンドを設け、陸上競技やサッカー・ラグビー等近代スポーツの拠点を作った。今の夏の「全国高等学校野球選手権大会」も、最初はこの豊中の球場で開催されている。ライバルの阪神電鉄1924年甲子園球場(開場当初は甲子園大運動場という呼称であった、直ぐに上記の名称となった。1964年から阪神甲子園球場となる)を完成させた為、会場はそちらに移された。しかし阪急も、豊中のグラウンドをさらに発展させる形で、「宝塚グラウンド」を完成させる。その宝塚に、日本運動協会の理想を移植しようとした。ここからが本題(汗)で、小林は解散した日本運動協会を翌年の1924年2月に引き取り、「宝塚運動協会(宝塚野球協会)」という球団を作ったのであった。その後解散するが全体の流れと見れば、これがのちの阪急ブレーブス、つまり(身売りと合併を繰り返すが)現在のオリックス・バファローズの前身といえる。つまり一度消滅したとはいえ、今のオリックスの方が巨人や阪神よりも先に(プロ)野球を始めたという事になる訳です(燃)ひいき目もあるが、ある意味オリックスも"伝統の一戦"や"伝統の球団"と呼ばれても過言ではないのである!!!!!話が飛躍したが、そして1929年に大阪毎日球団・神戸スタークラブ・神戸ダイヤモンドクラブというセミプロチームと組んで、「関西四球団連盟」というのを何とか創設し、日本で初めてのペナントレースを開催する所までこぎつけるのである。ところが結局これも上手く行かず、同年の7月に宝塚運動協会は解散に追い込まれてしまう(汗)この関西四球団連盟のリーグ戦野球を"西の早慶戦"として人気を集めようとしたが、頓挫したのである・・・
 「日米野球主催」の為に仕方が無しに作った巨人の前身大日本東京野球倶楽部が、思わぬ人気を呼んだ(この時点で大日本東京野球倶楽部はまだ正式にはプロ・リーグを結成していない)為、関西の野球界は遅れを取り、当然東京の読売新聞社が先行する。</読売がプロ・リーグ結成に動いた事を知った小林は、視察中のワシントンから部下に電報を打った。小林の日記には「大阪毎日新聞社に相談して」西宮北口(駅)に運動場を建設し、併せてチームを作るよう指示した と記録されている。乗客獲得や既に甲子園球場を建設していた阪神も球団経営に乗り出すとあって、引く事は出来なかった。わずかな時日で選手が集められ、1936年1月「大阪阪急協会」が発足する。さらにこの年の終わりから昼夜兼行の工事で球場が創設され、チーム結成より遅れて、1937年4月に完成をみた。次回に、続く。
参考文献:綱島理友 著『ボクを野球場に連れてって』(『朝日文庫』所収 朝日新聞社 1997年)
          永井良和橋爪紳也 著『南海ホークスがあった頃 野球ファンとパ・リーグの文化史』(紀伊国屋書店 2003年)
     永井良和 著『ホークスの70年 惜別と再会の球譜』(ソフトバンククリエイティブ株式会社 2008年)