GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

外せん話が多すぎますなぁ

 若干情報が遅れましたが、楽天が金銭トレードで2004年に10勝を挙げた川島亮(ヤ)を獲得しました!実力・素材はありながらも、何ちゅうてもケガが多いのが玉に傷(ウインク)他には桟原(神・育成)を西武が、獲得。言うまでもなく中継ぎ補強やなぁ(汗)あと阿部健太(神)・元日本ハム阪神・台湾の正田樹独立リーグ・新潟)・水田(中)それぞれの選手をヤクルトが、獲得しました!水田は内野手補強、ショートの補強、サード・宮本の後釜の為やなぁ。先日シモヤマンが現役を引退した為また1人近鉄戦士が消えました(涙)が、何とか阿部健が生き残ってくれました(大笑)阿部健、もうラストチャンスやぞー!!
 それと一昨日の爆問パワフルフェイスで知りましたが、超新塾に新たに2名メンバーが加わり、6人グループとなりました・・・6人ともなると、目立たん人・浮く人がどうしても出て来るやろうなぁ(汗)3人でも中々難しいのに(困)これでメンバーの変遷は、5人→4人→6人となりました・・・新メンバーの名は、小嵐健太とアイク・ヌアラです。
 そして大変残念な訃報です・・・毎日オリオンズの選手としてプレーし、大毎・阪急・近鉄の監督として長くプロ野球界特にパ・リーグに貢献した西本幸雄(<現役時代>毎日<監督>大毎―阪急―近鉄)氏が逝去されました。西本氏は1950年に当時の社会人野球の名門・別府星野組から左投げ・左打ちの為、内野手としては一塁のみそして外野手として毎日に入団。高齢の入団の為、選手としては短命でした・・・しかし!!1960年から大毎の監督に就任し、"ミサイル打線"と称された強力打線を擁し、監督初年度でいきなりパ・リーグ優勝へ導きました!!日本シリーズは、こちらも球団創設後初優勝を果たした大洋と対戦する事となりました。シリーズの下馬評では、大毎が圧倒的に有利と見られていたが、蓋を開けてみれば全試合1点差で大洋が勝利を挙げ、日本一になってしまいました(困)特に第2戦で大毎は、ミサイル打線が振るわない為西本監督は8回一死満塁の場面で5番打者・谷本稔大映・大毎・東京―阪神)にスクイズバントを命じた。ところが結果は捕手の真ん前にゴロが転がり、併殺打となってしまった。その夜、大毎球団のオーナー・永田雅一氏は西本氏に電話をしてこの采配をなじった。対して西本氏は「大毎の事は、自分が一番良く知っております」と応じた。これに対し永田氏は「バカヤロウ」と叱責した(この事を俗に"バカヤロウ事件"という)。作戦(現場)への介入は、明らかに越権行為ですよねぇ(落ち込み)結局西本氏と永田氏の対立構図は無くならず、西本氏はリーグ優勝したにもかかわらず、監督解任・辞退(どちらが真相かは不明である)となりました。
 しかしその手腕・情熱を買われ1963年に阪急の監督に就任します。1967年、パ・リーグでは最古の歴史を持つチームでありながら、優勝未経験の阪急が初優勝を飾った。しかし日本シリーズは、V9時代の巨人の真っただ中であり、セ・リーグのチーム・巨人に栄冠がもたらされるのである。この後西本氏は何度も何度も日本シリーズに出場するが、ついに彼は1度も日本一になる事が出来なかった。その為彼は「悲運の闘将(名将)」と呼ばれるようになる。自分が手塩にかけて強豪にしたチームと巨人のV9時と重なってしまったのも西本氏にとっては不運であった・・・阪急時代の野手の陣容は、機動力有り、長打力有りであった。さらに西本氏は、前代未聞の監督不信任投票もこの阪急時代に行った事もある。初優勝する前であったが、「監督はいずれ代わる」という雰囲気では練習をいくらやっても効果はない と考えた彼は1966年の秋季練習が始まると、西宮球場の会議室に選手を集めた西本氏は、便せん用紙を1枚ずつ選手に渡し、「俺と一緒にやりたいなら○、嫌なら×」と自分の進退を問うたこともあるのだ。結局支持が多かったものの、主力選手に×・白紙が多かった事にショックを受け、西本氏は球団に辞意を申し入れる。ところがオーナーが西本支持を表明、球団が慰留を指示した。結果監督の熱意に応えたのか、阪急は西本氏の下猛練習に耐え、優勝したのであった。以降4回リーグ優勝に導く。
 そして球団からフロント入りを打診されたが、まだまだ監督として動き回りたいのと「数年は他球団に移籍しては、ならない」という条件に合わずフロント入りを拒否し、自ら近鉄に売り込む形で1973年オフに近鉄へ移籍する(ドクロ)傍から見てて、近鉄には年齢的にも素材的にも鍛え上げれば、良い・強いチームになれるという確信があったからである!就任2年目の1975年には早くも前期優勝(当時は、パ・リーグのみ2シーズンの前・後期制)を果たすも、後期はかつての教え子・阪急に蹴散らされてしまいます(落ち込み)さらに優勝チーム同士で争われるプレーオフでも一蹴され、総合優勝を逃してしまいます(汗)しかし4年後に戦後12球団の中でもっとも遅く、1979年にパ・リーグ初優勝を果たした(笑)つまり西本氏は、弱小球団阪急・近鉄に初優勝をもたらした偉大な人物と言っても過言では、ないでしょう(燃)日本シリーズは、広島の前に「江夏の21球」などもあり、3勝4敗と日本一を逃した。翌年(1980)の日本シリーズも同じ組み合わせとなったが、広島が日本一に輝いた・・・また翌年も指揮を執ったが、再び主砲のチャーリー・マニエル(ヤクルト―近鉄―ヤクルト)が、ヤクルトに移籍した事もあり、監督として最終年は最下位に沈んでしまいました(困)しかし奇しくも最終試合は、近鉄×阪急(日生球場)となり試合終了後には、両チームの選手らから胴上げされました(拍手})チームからの胴上げは、仰木(2001年のオリックス×近鉄で)さん・ノム(2009年のクライマックスシリーズ日本ハム×楽天で)さん・梨田(2004年のオリックス×近鉄で)さんぐらいしか僕の知り得る限りでは、知りません{炎}そのぐらい慕われてたんでしょう!
 自身が野手出身という事もあり、経験もあり直接指導出来る野手の育成に情熱を注ぎました!しかし投手に対しては、あまり大事にしなかった印象も(汗)特に1980年の近鉄時代は、「お前ら投手陣には申し訳ないけど、うちでは飛ぶ(飛距離の出る)ボールを使わせてもらう」という感じで当時日本プロ野球記録であった年間239本のホームランが出るような打線を形成しました(大笑)またノムさん曰く「野球に対する情熱では、あの人は尊敬に値する。ただし野手に関しては。」と述べている一方で、「いち早く当時はタブー視されていた筋トレや水泳をトレーニングに採り入れていたという点では、根性論ばかりでなく近代的トレーニング理論も持ち合わせていた」と述べています。それからもちろん当時のパ・リーグですから(涙)大型補強に頼らないチーム作りをしていました。そりゃ、時にはチームを強くする為に「17歳の四番打者」としてルーキー時代から近鉄の顔であった土井正博をトレードに出し、対戦相手として苦手としていた投手・柳田豊西鉄・太平洋―近鉄)・芝池博明近鉄―太平洋―近鉄―中日)をトレード(もっとも当時は、FAなんてありませんでしたが[汗])で獲得した事もありましたが、殆ど"熱血!!手作り野球"でした(炎)「DH制度が創設される事が分かってたら、土井をトレードに出してなかった。」とおっしゃられていましたが、それも苦渋の決断・チーム強化の為だったんでしょう(ウインク)詳細を知りたいかたは、浜田昭八著 日経ビジネス人文庫近鉄球団かく戦えり』(日本経済新聞社・2005年7月)や同著『監督たちの戦い』(日本経済新聞社・1997年11月)などをご覧ください!また阪神の監督就任を打診された事もあったそうですが、断り続けてたようです(汗)やはりパ・リーグ出身者としてのプライドが、あったんでしょうねぇ・・・他にはエピソードとし左投げの選手として、二塁手として試合に出場した事のある選手でもありました<(ウインク)何でもベンチ入り選手の中でセカンドを守る選手が居なくなり、西本氏自ら監督に申し出て一塁手から二塁手に移ったそうです。監督には西本:「僕がセカンドをやりましょう!」監督:「やるったって、お前は左投げじゃないか?」西本:「左投げの選手が、二塁を守ったら違反とルールブックに書いてあるんですかい?」と言いくるめたそうです!そして監督引退後は解説者として活躍し、1990年代の「日本料理 河久」の関西ローカルのCMや1997年の「納税協会」のCMでもお馴染みでしたよね?(笑)通算成績は、試491率.244 6本99点 安276、試2655 1384勝1163敗118分 率.543でした。失礼ながら91歳という年齢的には、そろそろかなぁと胸騒ぎがしていましたが、いざそうなると残念なものです(涙)西本さん、パ・リーグの為・そして球界の為に長い間、本当にありがとうございました(すいません)これからもOB球団・ロッテ、オリックス・バファローズを中心に球界を見守っていてください。