GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

原点

 僕がお笑いというか漫才・コントを好きになったキッカケは、吉本興業所属でしたが(汗)河本栄得(1994年に没)氏と高山知浩(トモヒロ)氏による漫才(お笑い)コンビ"ベイブルース(以下:"ベイ"の時もあり)"をテレビで観てからでしたね!
 たまたま1994年の4月に入院先で『笑いの剣』という番組でベイ達若手の漫才を見て、漫才って阪神・巨人、カウス・ボタン、大助・花子、今いくよ・くるよといったベテラン(→当時僕が把握してる漫才グループはこの程度のもんでした[困]しかも1994年まで僕は漫才という芸を見た事すらなかったですから[ドクロ]何か小難しいものやと思い込んでたんで、頭の悪い僕には到底理解出来るもんやないと・・・)だけやなくて若手でもするもんなんやって実感し、面白いなって思った瞬間でした!
 しかしベイの存在は、MBS毎日放送ラジオの『ヤンタンあそびのWA! はなまるリクエスト』や時間的に直ぐその後にやっていた『ヤンタンあそびのWA! 月曜日』(←ベイは、月曜のパーソナリティやった)で事前に知ってはいました。当時2回ほど組織票で、はなまるリクエストにベイブルースが歌手のノリで歌う『夫婦きどり』(この時点でCD化はされていない)をリクエストした事があります(笑)当時この番組は、最新のヒットチャートを押し退けて、歌手では素人のベイブルースがその日の1位を勝ち取ったり、まだ売れてなかったシャ乱Qつんくが木曜日のあそびのWA!のパーソナリティをしていた関係で)の『上京物語』が1位になったりといった珍現象が見られました(ウインク)組織票がまかり通る今考えたら、かなり冒険心のある番組でした(大笑)ただ僕は、当時中学生でしたし、今の吉本の悪癖?でもあるんですけど、内輪にしか分からん話やお笑いに詳しくなかったんで、殆どはなまるリクエストしか聴いていませんでしたね(汗)ただベイの番組は、前身の『ヤングタウン』(ヤンタン)の方が僕はラブやった(木曜日の桂小枝・羽野亜紀・つんくとか火曜のトミーズとかを聴いてた)んで、ヤンタンを消したあそびのWA!はまだ受け容れられん・許せん事もあり、その流れで火・木ははなまるリクエストだけやなくて起きてたらあそびのWA!を聴いてた感じでした・・・という意味解らん理由で月曜日のあそびのWA!は聴いてなくて、河本さんが亡くなられてからますます聴かんようになってしまいました(困)この頃は僕が、唯一ラジオから離れてた時期ですわ(落ち込み)
 話がラジオに逸れましたが、でも笑いの剣で特にベイが反乱軍(この番組は、反乱軍と帝国軍とに別れていた→帝国軍のリーダーは千原兄弟で反乱軍のリーダーがベイブルースという構図に感じました)でネタを観れる時は凄く楽しみにしていました。他にも『屋台の目ぇ』には出てましたし、観てましたね。ただ突然笑いの剣から姿を消したんで、2丁目劇場から居なくなったのは薄々気付いてましたが、今回皆さんに紹介するノンフィクション小説の高山トモヒロ 著『ベイブルース 25歳と364日』を読んで初めて2丁目を卒業した事を知りました(汗)で、笑いの剣を観る楽しみは半分以上減りました・・・ただ屋台の目ぇだけは、欠かさず観てました。でも高山さん、自分らが出てたのに著書に笑いの剣の後継番組・『すんげー!Best10』や『ヤングタウン』って書いてましたよね。僕の記憶が確かやったら、すんげーには出てなく笑いの剣やと思うんですけど、この本の時代もヤンタンやなく正しくはヤンタンあそびのWA!ですよね。もしやゴーストライターが・・・いいや、高山さん本人が絶対書いてます!ただもう既に彼らは売れてたから、番組名を正式に覚えてなかっただけの話です!よね?(汗)
 河本さんを最期にテレビで観たのは、特番か何かの漫才で でしたね。たまたまチャンネルを変えた時にベイが漫才をしていました、途中のくだりからやったとはいえめっちゃ観たかったのに妹に押し切られてテレビ画面をゲームをするのに譲ってしまったのを、どうして強く観たいって言わんかったんや!と今でも後悔していますね(涙)訃報を聞いた時(翌日の新聞)は、やはりショックでしたね、つい最近まで元気にテレビに出てた人やったのにという感じで・・・泣きはしなかったですけど。さらに翌日の合唱コンクールでもクラスの子に同音異字性の男の子がいて、悔しさ交じりに「川本、死ぬなよー」っていじられてるシーンも見ましたし、歌の途中でも時々ベイブルースの事を考えていましたね。ベイブルース・河本を知ってるのは、クラスで僕だけやなかってんなって思いました。その後は後継番組のすんげーを観ましたけども、どこか気が入らなかったですね・・・深夜に移ってからは、面倒臭くもなり観なくなりました。この頃からすんげーが学校でも流行りましたね、ただ僕はその前の笑いの剣時代から知ってんねんぞ!俺の方がもっと前から注目してたし、観てたんやぞ!!って変な自負を持っていました(涙)失意の中ですんげーから新喜劇や短時間番組の『爆笑BOOING』に移行しました。高校に入ってから、またブーイングからすんげーに戻しましたけど。
 あそびのWA!を聴いてなかったんで知らなかったですけど、夫婦きどりをCD化してたのを店で発見した時は驚きでした。あぁ亡くなる前にこういうレコーディング等もしてたんやと実感しました。また夫婦きどりが昼休みの校内放送で1回流れた事もあり、その時に机を囲んだクラスメイトが曲を聴いて笑っていたので、少し嬉しくもなりました。でもその子達はお笑いを詳しくなかったし、恐らく誰が歌ってるかも知らんやろうしその内の1人はもうこの世には居ないって事も知らんやろうな と1人黙って考えもしてしまいました・・・結局、コンビでのベイブルースは生で観た事がありませんでした。高山さんは2度だけヤン日(ヤングタウン日曜日)・ヤン木のイベントとで観た事があります。2001年に和泉修氏とコンビを結成した"ケツカッチン"になって(高山さんは現在ケツカッチン・高山という事ですな)からは1度もありませんが(困)
 ただ僕は高山さんに対して誤解してたんが、河本さんが亡くなってピン芸人になって(→実際気持ちの上では相方が亡くなってもベイブルースは解散してなかった、その為高山さんの芸名はベイブルース高山という表記・言い方が殆どでした)、『ビデリンが行く!』や『ヤンタン 日曜日(ぜんじろう・高山さん・ 高木郁乃Jungle Smile))』や『満開ハッスル家族』や『ヤンタン 木曜日(高山さん、種浦マサオ(愛称:ターネー)、中村亜紀)』や『ヤンタン 水曜日(NOB(CURIO)・高山さん・中村舞子)』を観る・聴く限りでは、結構楽しんでやってるように見えてたんですが、プライベートでは結構荒れてたんですね(驚)アル中にもなってたなんて、2001年放送の『ナンバ壱番館 今夜解散!ベイブルース』で初めて知りました・・・この時にベイブルースという看板(屋号)は下ろし(それまではテレビの字幕や芸名は、"ベイブルース高山"や"高山知浩"という表記をされていました)、ケツカッチン高山という事になったという事です!この時の放送は今でもビデオに録ってますし、泣きました。さらに事細かな事は、著書に書いてありますね。今回もたくさん泣きました、僕は泣く程の立場のファンやないかも知れませんが・・・しかも漫才をやりたがっていたなんて、気付きもしませんでした・・・だから和泉修さんとコンビ組んだって知ったナンバ壱番館はほんまにビックリさせられました!でも僕が鈍感なだけかも知れませんが、そういった所を高山さんは僕らに見せずに気丈に振る舞える辺りは、優しい人やなってつくづく思いました!僕は高山さん1人になっても、熱心ではなかったにしても他人に宣伝したりもしたんで、応援してた甲斐があったなぁって思ってます。今こうして『オンバト+』を初めとしたネタ番組狂で居られる自分が居るのは、ベイブルースのお二人のおかげです!!ベイブルースが僕のお笑い好きを目覚めさせてくれました、本当に感謝の言葉しかないです!原点はほんまにここでした!というのを随分前にこの本を購入していたんですが、今回ようやく完読したので、言いたかった訳ですが、ほんまにこの本はお笑いに興味の無い方でもお勧めです(燃)「真実は小説よりも奇なり」というのを地で行ってる感じで、ほんまにこういう話が現実に在るんか!?という感じです!この記事をご覧の皆さんも良ければ、ご一読下さい(すいません)
 高山トモヒロ 著『ベイブルース 25歳と364日』(株式会社ヨシモトブックス 2009年)として出版されてます。
 河本さん、これからも天国から高山さんが困ってる時や苦しい時に力を貸して下さい。


                 リング