GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

あっぱれ!とは言えないですね・・・

 "大沢親分"こと、大沢啓二(昌芳・昭)【<現役時代>南海―東京<監督>ロッテ[1971年は代理監督]―日本ハム2度】氏が、亡くなられましたねぇ・・・親分は、立教大学から1956年に南海に入団し、特に守備に定評のある外野手としてレギュラーを張っていました。特に1959年の巨人との日本シリーズでは、ファインプレーを連発し南海の日本一の影の立役者とも言われました。他にもトリックプレーなんかもやってのけました。ある東映対南海の試合で、4回裏東映の選手がセンター前にヒットを放ち、東映の選手が一塁ベース直前まで走って来ると、大沢親分が背を向けながらバックスクリーンに向かって走り出した。東映の選手は当然親分が打球を後にそらしたと思い、二塁へ走った。しかし東映の選手が一・二塁間の途中まで走った時、親分はくるりと振り返り二塁手に送球、東映の選手はタッチアウトされました。親分は初めから計画的にトンネルした様に見せかけて東映の選手を二塁まで誘い出し、アウトにしたという逸話がありますね。他にも立教大学時代には、打者の特徴を掴み、レフトの守備であらかじめかなりの前進守備を敷き、打者をレフトゴロに仕留めた事もあります(参考文献:近藤唯之 著『プロ野球通になれる本 好プレー・珍プレーに見る人間ドラマ』【PHP文庫】所収 PHP研究所 1996年)!また新人選手獲得の際ドラフト制度も無い自由競争の時代であったので、各球団札束攻勢の時代でした。その真っ只中の時代に立教大学の後輩にあたる目玉選手・杉浦忠長嶋茂雄の獲得に奔走しました。球団から出るお小遣い・栄養費を二人に渡していたのが、大沢親分でした(彼は球団と選手の仲介役でしたね)。結局杉浦氏は南海に入団したものの、長嶋氏は入団内定目前で巨人に持って行かれました(汗)長嶋氏の名誉の為に言うと、彼は貰ったお金全額を返上して、巨人に入団したという経緯があります、はい(落ち込み)もし最初から手を付けていた南海に長嶋氏が入団してたら、日本のプロ野球の歴史も大きく変わっていたでしょうし、ノムさんとの確執も起きなかったかも なんて・・・
 話がそれました(汗)が監督としては、1981年に日本ハムパ・リーグのリーグ優勝に導きました!この年はセ・リーグは、巨人が優勝した為史上初の同球場(後楽園球場)を本拠地とするチーム同士の日本シリーズとなりました。残念ながら敗戦し日本一を逃しましたが、長年低迷していたチームを立て直しました。それだけでなくマスコミへのリップサービスに一役買い、1度目の日本ハム監督時代は、肉食禁止の西武の広岡監督を挑発した「野菜(草)食って、勝てりゃ今年はヤギさんチームの優勝だ。」といった発言もあり、自チームは肉食をどんどん奨励したりと随分話題になりパ・リーグを盛り上げました(笑)日本ハムの2度目の監督をした時も当時西武の森監督とも、よく舌戦を繰り広げ当時人気低迷のパ・リーグに話題を集めました!僕も当時日本ハムは、監督が目立ってる球団やなぁという印象を持っていました(大笑)
 特に近年では「モルツ球団」やマスターズリーグ創設にも尽力していました。さらに日曜日朝のTBSテレビの『サンデーモーニング』では、スポーツコーナーの「週刊御意見番」でよく張本勲(現役時代は、東映・日拓・日本ハム―巨人―ロッテ)氏とけしからん事には「喝!」・褒めるべき事には「あっぱれ!」を連呼してたし、大沢あかねさんの祖父でお馴染みですよね。大沢親分、天国からも野球界や現代社会へ喝なりあっぱれなりを下して下さい!通算成績は、試988率.241 17本191点 安501。 試1547 725勝723敗99分 率.501 です。合掌です(涙)