GRの戯れ言日記

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南海ホークス回顧(1966年~1977年)

 1965年オフに南海は鶴岡が、リーグ優勝を置き土産に監督を勇退し、後任をヘッドコーチの蔭山和夫に委ねたが、心労やプレッシャーからか彼は1度も監督のユニフォームを着る事無く、監督就任発表の4日後に急逝した。その為この時東京オリオンズかサンケイ・アトムズの監督に就任する事でほぼ合意していた鶴岡は辞任を翻意し、急遽南海で再び指揮を執る事になった。しかしこの頃既に南海は、内部から歪みが生じ始めていた。特に大きな2つの派閥が有り、チーム成績も芳しくなくなっていく。結局鶴岡は3年間指揮し結果的には、好成績を挙げた。後任を飯田徳治に託したが最下位に沈んだ(1969年)。その為当時プロ野球界でブームであった青年監督が就任する事になる野村克也が選手兼任で監督に就任する(プレーイングマネージャー)事となった(1970年)。主砲でありチームの再建を託されたノムさんは、鶴岡に反するような頭脳野球を展開する(→ただ鶴岡も全く頭脳野球を実施していなかった訳ではない。尾張メモ[ノート]に代表されるようにスコアラーの先駆けのようなものもしていたが)。さらに監督就任の条件として優秀なコーチをヘッドコーチに据えるという条件を付けた。野球観の合ったチームメイト、ドン・ブレイザー(本名:ブラッシンゲーム)[<現役時代>南海<監督>阪神―南海]をヘッドコーチとして"シンキングベースボール"を展開した。
 そんな中パ・リーグが、1973年に2シーズン制というものを取り入れた。これは今までの<下線>シーズンを前期と後期に分けて、それぞれで優勝したチームがプレーオフを戦って、そこで勝ったチームが日本シリーズに進出するというシステムである。人気がセ・リーグと比べてイマイチであったパ・リーグが、1シーズンに2回の優勝争いと、そして1回の決勝戦を作る事によって戦いの山場を作り機運を高めようと始めた</太>のである。しかし実際には前期に優勝したチームが、後期はプレーオフに備えて力を温存する為に「死んだふり」をして本気で戦わなかったり、前・後期をトータルした勝率が優勝チームより2位のチームの方が高かったという事もあって、結局この制度は1982年で廃止される事となる。特に導入初年度のこの年は、前期で南海が優勝し、後期で阪急が優勝したが、後期に南海は阪急に対して1勝も挙げる事が出来なかった。その為南海は、前述した「死んだふり」と揶揄された。しかしわざと負けられるほど、野球というスポーツは単純なものではないだろう。絶対にそんな事はしていないと当時の選手やノムさんをはじめ首脳陣も述べている。ただやはり照準は、後期に関しては阪急に負け続けても良いし、プレーオフも3勝2敗で良いと思い、プレーオフに全て合わせてたという。結果はプレーオフで南海が勝利し、リーグ優勝したのであった。しかし、そんな巧妙高い南海も日本シリーズで巨人V9の前に屈したのであった。他にも"野村再生工場"はこの頃からの得意技で、他球団をクビになった選手や力の衰えて来た選手・トレードで来た選手を開花させた。1972年には、江本孟紀東映―南海―阪神)・翌年には山内新一(巨人―南海―阪神)・福士敬章(明夫)[プロ入団時とこの時は、松原明夫]<巨人―南海―広島―韓国三美―韓国ピングレ>を見出した。また1977年には1年掛けて先発投手に固執する江夏豊阪神―南海―広島―日本ハム―西武)を説得して、抑えの切り札としての才能も見出した。
 ただ戦力の劣る陣容では苦戦は必至と考えたのか、この頃から南海はしばしばスパイ疑惑を持たれ、チームに暗い影を落とすようになる。「勝つ為には手段を選ばぬ」という姿勢を持ち、スパイが過度に行われた。内情としてはスコアボードに人を配置し、望遠鏡で相手チームの捕手のサインを盗む。電話でベンチに球種が伝えられ、ベンチの控え選手から打者に伝達される。サインを盗むのは卑怯だという批判も有った。しかしパ・リーグでのサイン盗みは、西鉄時代の三原脩(<現役時代>巨人<監督>巨人―西鉄―大洋―近鉄―ヤクルト)が始めたもので、既に阪急や近鉄へと拡がっていた。他球団の方法は中々手が込んでいて、南海のものなど幼稚の部類に属する。この流れに乗り遅れた為に、南海は低迷する羽目になったとノムさんは考えていたようであった。さらにサイン盗みをしている事をあえて公言する事によって、実際にはサイン盗みをしているフリだけを続けていたらしい。そうする事によって、相手チームの選手に迷いやミスが生まれた。この戦術で度々貴重な得点を拾ったとノムさんは述懐している。ところがこういったサインの盗み合いがエスカレートし、試合時間が長引くようになる。サインを重視した試合運びについては、ファンそれぞれで好みが分かれる所だろう。しかし打者は度々打席を外し、バッテリーも中々次の球を決められない。ダラダラした試合進行に多くのファンが愛想を尽かした。ファンをないがしろにしているとの批判も出て、スパイ行為の禁止措置が取られる結果となった。
 また南海はチーム成績は上昇したものの、前述した様に内部から歪みが生じる。特にノムさんは急逝した蔭山派と見られ、反鶴岡の姿勢を貫くようになる。他にも江夏・柏原純一(南海―日本ハム阪神)・高畠康昌(導宏)[指導者となってから、康昌](南海)らがノムさんを敬愛し、蔭山派と見られた。一方黄金時代を支えた鶴岡を支持する復古主義?の鶴岡派は、広瀬叔功穴吹義雄(隆洋)[<現役時代>南海<監督>南海2度【1977年に野村の代行として一時期指揮を執った経験も有り】]・門田博光(南海―オリックスダイエー)らが占めていた。この様にチームは派閥でチームが真っ二つに分かれた。結果が出ていても、ノムさんに賛同しない理由は当然あった。それはノムさんがしばしば「サッチー」こと沙知代夫人を野球にまで介入させたからであった。その内情としてサッチーは、2人の息子達を球場へ引き連れて遊ばせたり、選手に練習相手をしてもらったり、選手起用やチーム方針にも口を出し始める。球団内では「助監督ならぬ"女監督"」との陰口が囁かれ、いつしかチーム内に不満が蔓延。異様な雰囲気に耐えきれなくなった複数の球団関係者が川勝傳オーナー(当時)に密告するに至り、「プライベートは全く意に介さず」とノムさんに絶大な信頼を寄せていた川勝も無視する事が出来なくなっていた。川勝が独自に不協和音の理由を調査した所、噂通りの実態であった為ついに1977年11月シーズン途中にもかかわらず、ノムさん解任を発表する</太>。このノムさんの行動は、当然<下線>監督を勇退して解説者となっていた鶴岡の逆鱗にも触れた<。前代未聞の成績不振ではなく、公私混同による解任であった。しかしノムさんは絶対にその様な公私混同はしていないし、問題行動をしていないと言い張っていた。さらに解任に不満を抱き、恩師鶴岡へ「鶴岡元老の圧力で吹っ飛ばされた」と糾弾した。鶴岡自身はノムさんへ怒りの感情は覚えたが、解任させたという事はない と述べている。真偽のほどは定かではないが、ノムさんが信用を失ったのは間違いなかった。ちなみにこの経緯があったせいか、大阪球場跡地に建設された「なんばパークス」内に「南海ホークスメモリアルギャラリー」が建てられたが、球団史の中にノムさんの記録が一切掲示されていない。南海のイメージを悪くした張本人であるからという経緯か、サッチーが未だ南海に対してわだかまりを持っており、ノムさんの意向もあまり反映せずにほぼ独断で掲載を拒否したともいわれている。いずれにせよ去り際を汚したとはいえ、南海の勝利に数々貢献し、戦後のプロ野球の功労者へのこの扱いは非常に不自然だろう、というのが僕の意見なんやけど。
 またノムさん信奉者であった主力選手の江夏・柏原もある場所に籠城して球団と抵抗したが、結局江夏は広島へ、柏原は日本ハムへトレードされる事となった。投打の主力選手を失った南海はその後見る影も無く低迷して行く。次回へ、続く。