GRの戯れ言日記

拙ブログは、過去に他サイトのブログサービスでやっていた「リングの戯れ言日記」というものをそのまま移動させたものです。2014年3月27日以降の記事は、gooブログの「GRの戯れ言日記2」をご覧ください。

南海ホークス回顧(1リーグ時代~1965年)

 時代は過ぎ、戦後間も無くの1946年に近畿日本軍は「近畿(近畿日本)グレートリング」と戦前の英語禁止令も解かれ、新しい時代に合わせてチーム名を変更した。つまりこの時に僕のハンドルネームの元になったチームが、誕生したのである。ちなみに近畿グレートリングのニックネームは、アメリカのスラングでは女性の下半身の秘部を指すようである。その為進駐軍の兵隊には、このチーム名はバカウケだったようだ。当時の南海・近鉄の合併鉄道会社には、当然そういう意図は無くただ鉄道会社なので「大いなる輪」という意味で名付けただけであろうに、思わぬ失笑を呼ぶ事となった。それと戦後初の記念すべき初代優勝チームは、近畿であった。河西(かわにし)俊雄(近畿・南海―大阪)・安井直史(なおし)[亀和]<南海軍・近畿・南海―大洋・大洋松竹―高橋・トンボ>・田川豊(近畿・南海―大陽―近鉄大映)らの機動力と復員した鶴岡(山本)一人監督が選手兼任で率いていて、「百万ドルの内野陣」の原型(三塁・鶴岡、遊撃・木塚忠助[南海―近鉄]、二塁・安井、一塁・飯田徳治(<現役時代>南海―国鉄<監督>サンケイ―南海】)を固めた。また1948年にも優勝を飾った。鶴岡は戦場に行っただけあり、非常に威厳もあり鬼監督&人情監督でもあった。他にも大リーグに倣えという思想も出て来て、1947年にもニックネームの採用という事でも現れた。親会社が元の近鉄南海電鉄に分かれた為、近畿グレートリングが又元の南海に戻って"南海ホークス"という球団名となった。
 他にもプロ野球機構の中でフランチャイズ制度(本拠地)というものが、考えられたのもこの1947年であった。この頃のフランチャイズ制度は現在のように地域を前面に押し出しての形(地域密着)ではなかった。南海と阪神甲子園球場を本拠地として使用した。しかし1950年に南海は自身で大阪府の難波に建設したやがて「昭和の大阪城と呼ばれる程、盛況を誇る大阪球場を本拠地にする事になった。以前大阪球場を説明する時に書き忘れましたが(汗)少し話が先行するが、1953年に大洋松竹ロビンス大阪球場を本拠地として使用していた(→恐らく大洋ホエールズ松竹ロビンスとの合併前に県下関市を本拠地としていたが、松竹との合併により松竹側への配慮[松竹の本拠地は、元々京都府であった]や人口の多い地域を選択したのであろう。大洋松竹が大阪球場を本拠地としたのは、1953・1954年)。
 1950年にセ・パ2リーグ分裂後パ・リーグの強豪チームは、西鉄ライオンズと南海であった。後者はエース別所を1949年に巨人に引き抜かれるが、何とかチーム力を保った(1951年・1952・1953・1955とリーグ優勝、しかし日本シリーズでは全て強豪・巨人の前に惜しくも敗戦)。選手は百万ドルの内野陣と呼ばれ、三塁・蔭山和夫(<現役>南海<監督>南海 注:1962年に鶴岡の代行として一時期)、遊撃・木塚、二塁・岡本伊三美(<現役時代>南海<監督>近鉄)、一塁・飯田ら好選手に溢れた。それらの人物を中心とし1959年パ・リーグを制覇したのは南海であった。対してセ・リーグは巨人であった。南海を優勝に導く原動力となったのは、長さんこと長嶋(長島)茂雄(<現役時代>巨人<監督>巨人2度)の立教大学の同級生・杉浦忠投手(<現役時代〉南海<監督>南海・ダイエー)である。彼は長さんと同じ1958年にプロ入りしており、1959年のシーズンには>38勝4敗という驚異の成績を挙げたのであった。そして彼は何と日本シリーズ無傷(負け無し)での<4連投4連勝を成し遂げたのであった。従って南海が日本一となったのであった。今もなお何かと毎年行われている"御堂筋パレード"もかなりの長距離をかけて、行われた(なお初めて御堂筋パレードそのものが行われたのが、この時である)。
 1961年にもパ・リーグで優勝したのは南海であった。東映も健闘したが、ここ一番に弱く、若さを露呈してしまった。南海はエース杉浦が故障離脱したものの、ジョー・スタンカ(南海―大洋)・皆川睦雄(睦男)[南海]・森中千香良(ちから)[通晴]<南海―大洋―東映・日拓・日本ハム―大洋>等が奮闘し優勝を成し遂げた。打線では「400フィート打線」と呼ばれ、ノムさんを中心に長距離・俊足選手が名を連ねた。ケント・ハドリ(南海)、広瀬叔功(よしのり)[<現役時代>南海<監督>南海]、寺田陽介(南海―中日―東映)、小池兼司(南海)らで形成されていた。日本シリーズの方は、別名"大乱闘シリーズ"と呼ばれるほどのもめ事の多い乱戦であった。その内第4戦はそれを象徴する様な試合で、9回裏3対2とリードされていた巨人が、2死満塁と投手・スタンカを攻め立てた。そしてこの時巨人の打者は、ハワイ生まれの宮本敏雄(エンディ・宮本)[巨人―国鉄]であった。ツーストライク、ワンボールからスタンカの投じたフォークボールは、際どい所に決まった。しかし円城寺満主審の判定はボール。捕手のノムさんも飛び上がって喜んだほどの良い球が決まったと思われる様な投球であったのだが。スタンカはマウンドを降りて円城寺に詰め寄ろうとした。するとハワイ生まれで英語がペラペラの打者エンディ・宮本が何かを言った。ここで何を言ったかは、諸説がある。「宮本がスタンカをからかったのだ」という説もあれば、「あれはボールだよ」と言っただけという説がある。近くに円城寺、捕手のノムさんをはじめとして沢山の人が居たのに英語であったので分からなかったらしい。ただ、この後スタンカがカンカンに怒っていたのは確かである。しかし何とか静められてマウンドに戻る。そしてその後に同じ様な外角球を投じたのだが、これをエンディ・宮本がライト前に打ち返し、これが逆転サヨナラ安打(3対4)となり気持ちの納まらないスタンカはホームにカバーに入ると見せかけて円城寺に体当たりした。円城寺はひっくり返りながら、サヨナラ走者の生還を宣したのである。この判定には疑問を持っていた者も多く、「円城寺 あれがボールか 秋の空」という詩も詠まれたという。しかし彼は死ぬ寸前まで「あれはボールだった」と思わず呟いたという。
 1964年はセ・リーグ阪神パ・リーグは南海が優勝を成し遂げた。日本シリーズ史上最初で最後の関西勢同士の球団で争われる事になった(近鉄や阪急は阪神日本シリーズで対決する事は、ついぞ無かった。この先オリックス阪神日本シリーズで対戦する事もあり得るが)。その"御堂筋決戦"・"地下鉄対決とも称された。両チーム共主力投手が外国人で南海はスタンカ、阪神ジーン・バッキー阪神近鉄)であった。さらに阪神は前年のオフにエース級の投手であった小山正明(大阪・阪神―東京・ロッテ―大洋)をトレードしてまで大毎(東京)から山内一弘を獲得して(この事は"世紀のトレード"といわれた)、4番打者に据え、打線を強化したのが功を奏した。しかし結果は、本当に大阪府を本拠地とする真の大阪のチーム南海が勝ち、日本一の栄冠を勝ち取った。そして同年この南海からもう1人のヒーローが誕生している。メジャーリーグサンフランシスコ・ジャイアンツのマイナーチームに南海から野球留学していた村上雅則(マッシー村上)投手(南海―米―南海―阪神日本ハム)が、9月にメジャーに昇格。何と日本人初の大リーガーとなってしまったのである(野茂英雄はメジャーへの道を切り開いた、パイオニアと言われている。その事は間違いないが、日本人初のメジャーリーガーではないんですよ)。さらに彼は9月29日のシカゴカブス戦に登板して初勝利までも挙げてしまった。しかし翌年彼が、そのままサンフランシスコ・ジャイアンツに所属するか、帰国して日本の南海に復帰するかという事が日米間の問題となり、結局日米コミッショナーの話し合いによって、次の1年だけメジャーリーグに留まる事となった。またこの年にも南海は、リーグ優勝を果たす。ただ好調なこのチームにも徐々に暗雲が立ちこめる。次回へ、続く。
 参考文献:前回と同じ文献に加えて以前紹介した、綱島理友 著『ボクを野球場に連れてって』(『朝日文庫』所収 朝日新聞社 1997年)